カテゴリ:研究論文 > 大滝詠一氏(Niagara)

僕は大瀧詠一師匠から卒業した。

あたりまえながら、学ぶべきところはきっとまだまだたくさんある。

しかし、在籍期間は限られているもの。

いつかは否応なく追い出されてしまうのだ。

追い出されてゆくべきものなのだ。



尾崎豊は「この支配からの卒業」と歌った。

それは、在籍期間からの脱却であって、

実は、卒業は2回あるのでる。

人は2度死ぬように。

もう1つの卒業は、潜在的な支配からの卒業なのである。

かんたんに言えば、俗世からの卒業なのではないか?

俗世的なモラルから自由になるとき、

本当の卒業なのではないか。

もちろん、ルールを守らない、という意味ではない。

そこから自由になるということだ。

それを、僕の筆力で説明する頃は、少し難しいのだが。頑張ってみると。

例えば、ごみの分別をするときに、

「これはプラスチックだから、リサイクルごみ」

と考えるのではなく、

「プラスチックは再生可能だから、リサイクルごみなんだな」

と逆にあたりまえに考える。

同じようで、全然違う。

再生できるものは、どんなものなのか?

そして、再生できるのに、燃えるゴミにルールによって分別されてしまっている資源がある、

しかし、そのルールに疑問を抱きながら、平和そうな顔をしている、

それが、精神的な自由なのだ。

これが芸術だともっと簡単だ。

だから、芸術家は芸術を求める。



自由になることはむつかしい。

心がリミッターを掛けるからだ。

しかし、自由は酸素のように実はどこにでもある。

そのリミッターを少しずつ、しかもモラル以上に、

かんたん(といってもむつかしいが)に外してゆけるのが

芸術であり、

自由になる過程を、きっと鑑賞者は感じながら、

同調してゆけるから、芸術は不滅なのだろう。



まだまだ、がんじがらめの僕だが、

少しずつ、外してゆこう。そして、それはきっと受け入れられるはず。

本当は、みんながそれを求めている。

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A LONG VACATION
大滝詠一
ソニー・ミュージックレコーズ
1991-03-21

「やられたなぁ」と思う音楽は、

昔の歌謡曲のメロディやコード進行のみならず、音質まで昔のレコードを聴くようなローファイな音質にまで仕上げた、つまり徹底的「昔を模倣した」音楽作品。

ついさっきもそういうのに出会った。やられたなぁ、悔しいなぁ、と思う。

自分もそういうのが作りたいのだ。

それとは少し話が変わるが、

なぜ、人は、新しい音楽にひきつけられるのか。

そこには99%の未知の体験と、自分の意識できない1%の「既視感」があるからだと思っている。

その1%を探し当てるために「これはなんだろう」と何度も聞くことになるのではないかと思っている。

そこで話は戻るが。

さっきの「模倣作品」、これは、パーセンテージが逆転して、99%の「既視感」と1%の未知の部分でできている。

その「既視感」の割合が多いから、その分ガツンとくる割合も高い。「やられた」という気持ちが高ぶるのだ。

知っている歌がいきなり流れてきたら、耳が持ってかれてしまうだろう。そういうことだ。

しかし、その「既視感」を感じる作品を何度も聞きたいかと思うと、そうでも無かったりもする。

そういう「模倣音楽」が大体企画一発で終わるのはそういうせいである。

ちなみに、大滝詠一師匠の音楽は、こちらの音楽体験が豊富になって行けば行くほど、大滝作品を聴いたときの「既視感」のパーセンテージが少しずつ増えてくる仕組みになっている。

つまり、どんどん、ガツンガツン来るようになる。

音楽体験を経るに従って、大滝作品の偉大さが分かってくるのだ。

だから、大滝作品をより楽しむように、ナイアガラーは死ぬまで勉強しなきゃならないのだ。

そういう作品が、残ってゆくのか、はたまた消えてゆくのか、それはまだ分からない。


アルバムダイジェスト

 
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恋するふたり
大滝詠一
ソニーミュージックエンタテインメント
2003-05-21


大滝師匠の最後の新譜になったんですな。

幸せな結末、の大ヒットから、5年後のシングルだそう。

そう、5年、思ったより短いスパンだなと、今の年齢の自分からは思ったりしてしまう。

師匠は師匠なりに、結構精力的に動いていたんじゃないかなとか、思ってしまう。

僕はすぐ動ける身のくせに10年アルバムを出してないんだから、

こんなにマイナーな人なのに 、(まだ活気があった)CDショップではたかが千イクラの商品に対し、

大々的な展開を見せていた気がする。古譜のパンフレットとかもあってね。

記念に貰って歌詞カードと一緒に挟んでる。

これは、ショップの店員一人が気張ってもだめなことで、

レコード会社とかもひっくるめて盛り上げていかないと出来ないことで、

どうして、この人の新譜だけで、周りがこんなに(自主的に)動いてしまうんだろう、

どうして、この人が死んだだけで、勝手に周りの人たちが、

彼のその音楽だけでなく、温かい人柄のことまで勝手に語り出してしまいたくなるのだろう、

音楽の部分でない、そういうことを、最近は、考えてしまうことがある。




この新譜を聞いた時には、少し声に衰えを感じた。

でも、このころには、すでに病の兆しはみえていたのかもしれないと思った。

もしかしたら、昔から?はっぴいえんどの時代から?

彼のトレードマークとなってる、囁くような歌い方は、大滝さんは何かと理由をつけるけど、

本当は、病気で、こう以外には歌えなかったのかもしれない、とか考えてしまった。

そう考えると、このラストシングルは、生命をかけた最後のファンサービスだったのかもしれないと。

しかも、しごく平凡なタイトルで、「ラスト」をにおわせない周到さ。

「幸せな結末」で、ジャケットも「ファースト」と同じにして、アナログでマスターを作り

始まりに帰って、すべてが終わりだと、彼は言っていたのに。

だから、さらに新曲が出たときに「まだまだ続けるんだ」とこっちはまんまと騙されて、

実は、これで「幸せな結末」とする、ということだったのか。





もちろん、これは、一ファンの妄想にすぎない。

彼の発言や態度を傲慢と感じる人もいるらしいけれども。

周到なファンへの思いやりをしっかり施した後だからこそ、堂々と言えることなのかもしれない。

どんな発言をしようとも、大滝さんのファンへの答えは、いつか見つかる「そこ」にかくしてあるはずなのだ。

そして、彼の音楽について語りたくなる人がまた一人、また一人と増えるのだろう。 

さみしいけど、ありがとう、と、少し、後悔もにじませつつ。

Wall of Sound: The Very Best of Phil Spector 61-66Wall of Sound: The Very Best of Phil Spector 61-66
アーティスト:Phil Spector
Sony Legacy(2011-02-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

フィル・スペクターが殺人犯として懲役19年の判決を受けたせいでしょうが、彼の代表的な音源がいい形でなかなか再発されてなかったけれど、とうとうSony Legacyがやってくれましたね!しかも超廉価盤。これでフィル・スペクターの偉大な仕事に触れる人が増えてくれると嬉しい。ロネッツ、クリスタルズ、ダーレン・ラヴも同時発売。

しかし、ロネッツ、クリスタルズ、ダーレン・ラヴ、は、1992年にワーナーから出たベスト盤と(なぜか曲順も)ほぼ重複。やはり注目はこのフィル・スペクター名義の「wall of sound : the very best of phil spector」と題された盤。前記3盤を「いいとこどり」したうえに、ライチャス・ブラザーズ、ティナ・ターナーまで付け加えた1枚。これは買いだね。気軽にスペクターに触れたい人はこれで十分かもしれない。

で、マニアには気になる音質ですが、92年盤が「マスターテープを当時の機材で忠実に再生して、原音のままCDに収める」というコンセプトであったのに対し、今回は「当時の常識である一回性のミックスで生じた妥協部は修正をする」というコンセプトもあるように感じます。

(88年〜92年くらいはCDにとっては良い時代な気がする。デジタルの技術がだんだん安定し、音圧戦争の突入前だから、アナログ・トゥ・デジタル化は「原音」が重視される傾向にあったっぽい。逆に2000年の我らがビーチボーイズのワーナー時代などは、音圧戦争突入後なので悲惨…。このバンドの受難はまだまだ続く)

(そして今は、デジタルにアナログの再現は根本的に不可能だから、当時のアナログ感をシュミレートしてあげようよ、という感になっているのでしょうね。僕はこちらの方が正しい発想だと思いますね)

たとえば、ダーレン・ラヴの歌う「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー」における、二回目のサビに顕著な、突然の音量変化や、ちょっと出過ぎているような間奏のギター、カスタネットの凹凸等がかなり違和感なく均されています。

また、92年版はテープヒスが盛大に入っていたのですが、今回はそれがほとんど感じられず、それでいてアナログ感は十分に感じられるという、いわゆる「最近風のちょっとこじゃれた感じ」の音作りになっています。

しかし、テープヒスを取り除いたせいか、歌声にやや歪っぽい感じが増した感じもします。しかし、オケの音はとてもくっきりと分離がよくなり、実在感とさらに温かみがあり、すばらしいです。オケにフォーカスしたマスタリングと言えるかもしれません。

結局、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドというのは、ヴォーカルの個性を生殺しにして、音のタペストリーの一部に編みこんでしまうという手法であるわけですから、通常の歌もののようにヴォーカルにフォーカスしたマスタリングではいけない訳です。そういう意味で、この「ヴォーカルを捨てオケを取った」マスタリングはフィルの芸術を理解したものであり、私は支持します。

なにはともあれ、「古臭い音質」という印象を与えかねなかったフィルの作品の印象を一新した功績は大きいでしょう。92年の「ヒーズ・ア・レベル」のイントロのピアノなど抵抗を示すのが普通ですが、今回はまったく普通に聞けますね。マスタリングはVic Anesiniという人。やっぱりメジャーの作品は質が違うなと思いますね。彼に「Pet Sounds」をリマスターしてみてほしいな。

アナログをデジタルに刻み再生する場合は、やはり何か手を加えるのが道理だと思いますね。

ただ、テープの回転数が、馴染んだものと少し違うものがありました。僕はおっかけ世代なので、どちらが正しいピッチか判別がつかないですが、でも結局オリジナルもレコードである以上、本当のピッチなど分からないのかもしれません。少なくとも、「確かに新たなマスタリングなんだ」という事は実証されるのでしょうか。

また、フィルの最高傑作だと思う、ティナ・ターナーが歌う(フィルの音に負けないのがすごい)「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」がステレオで収録されているの少し「?」でしたね。勉強不足で申し訳ないのですが、これはもともとステレオ版もあったのでしょうかね?やはりmonoでないと、フィル・スペクター関連は、なんか落ち着かないし「気が散り」ますね。ブックレットにも「new remix」とかは書いてなかったです。もしかしたらさりげなくレアトラックなのかもしれませんが、でもmonoで入っていてほしかったですね(でもヴォーカルのリバーブは明らかにデジタルっぽいので、だからリミックスなのかも)。

廉価盤なので、二枚折の簡易ジャケットかなぁと覚悟していたのですが、ホッチキスで止めてある10ページのブックレットになっており、厚手の紙にこってりといい匂いの印刷が施されていて驚きました。初出の年代、出典、そしてチャート情報などもきちんと載っており、かなり丁寧な企画だなと感じました。

そして、まだネットでは情報が載っていませんが、中に広告が入っており、それによると6枚組の「フィレス・アルバム・コレクション」が6月に発売になるそうです。これまた大興奮ですね。買わなくては(CD売ろう)。

しかし、最近は音楽関係の話題で盛り上がることなどほとんどなくなっていましたが、久しぶりに「おぉ!」っときましたね。新たな生命を吹き込まれたフィル・スペクターの遺産(←まだ死んでないぞ!)をしばらくたっぷり楽しもうと思います。

考えてみれば、オリジナル・アルバムでのCDの再発ってこれが初めてなのかもしれません。時代がやっとフィルの音源を正当に評価し始めたということでしょうか。余りに遅すぎるね。でも、服役中のフィル・スペクター、儲けは一体どうなるんだろう。もしかしたら、すべて奥さんのラシェール・スペクターのさしがね??


Out of My ChelleOut of My Chelle
アーティスト:Rachelle Spector
Genius 4ever Records(2010-07-20)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


奥様の御作品。十分「新譜」と言える時期にディスクユニオンに持って言っても値段が付かなかった、フィル・スペクターの最新のプロデュース作品。(←多分プロデュースしてないんだろうね。それを見越して値段をつけなかったとしたら、ユニオンは相当すごいな)

▼参考url(私のビートルズ・リマスターへのささやかな反応)▼
http://blog.livedoor.jp/beans_man/archives/51537491.html

End of the CenturyEnd of the Century
アーティスト:The Ramones
販売元:Wea Germany
発売日:1994-11-16
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


このアルバムを聴くと、前勤めていた会社の上司を思い出します。

いろいろいきさつがあって、このアルバムのジャケットの話になって、上司が「でも、全然面白くないアルバムだけどね」と言っていた。

その時、僕はこのアルバムを聞いたことがなかった。そしてその会社を退社してから聴くことができた。

確かにそう、その通り。面白くない、という意見の立場に立つことが僕にも容易にできる。けれど、このアルバムは個人的には大好きだ。

なにせ、プロデューサが大好きなフィル・スぺクター。そのプロデュースのさじ加減が、ラモーンズにしてみては、どうもオーバー・プロデュース気味であることが、このアルバムの評価が分かれるところだ。きちんと順序立てて説明すれば、多分小学生でもわかるんじゃないかと思うほどである。

フィル・スぺクターとラモーンズ、どうしてこの二人が組むことになったのか、不勉強ながら僕はよく知らない。一見水と油のような関係のような気がするけれど、その音楽づくりの「実直さ」というところで共通する部分を僕は感じている。

もちろん、「実直さ」にもいろいろな種類があるのだなぁと、このアルバムを聴くと気づかされることになるのだけれど、共に思う「実直さ」を持ち合わせた結果が「これ」であったのなら、その両方を飲み干す「愛」が音楽ファンには欲しいところだ。

とくに一曲目の「ドゥ・ユー・リメンバー・ロックン・ロール・レディオ」はこのアルバムを象徴するだろう。ラモーンズで、僕の一番大好きなナンバーでもある。

ラモーンズらしい「メジャーコードしか使わないから、逆にトニックを見失う」みたいな意図せぬ面白さのナンバーの上に、「ああ、フィルならそうするよね」といった感じの、スネアの深いディレイ、ベース一緒にリズムを刻むサックス、オルガンの下降アルペジオの乱打等が、ラモーンズの楽曲に溶け合わず、肩を並べて同時進行的に進んでゆく。

まさに、「事情を知る人がにやにやする感じ」の面白さというべきか。そして、野球応援のような(ちょとダサい)リズムも妙にくせになる。

この曲を聴くと多少の憂鬱も僕は吹き飛んでしまう。

このアルバムは当たり前ながらステレオである。しかし、フィルはモノラルに固執したプロデューサだ。重厚で奥行きのあるサウンドをモノラルで作り上げたが、ステレオだと意外に軽やかなのが面白い。これがフィルのステレオの結論なのかと思うと興味深くもある。とにかく、フィルのファンとしては、このアルバムが残っただけでも、本当にラッキーだったと思う。ライチャス・ブラザーズのプロデュースなどは、まだまだステレオ模索中のように思えたからだ。

以下のナンバーも、たまに「フィル節」(メロディーを書いてないのに「節」とは妙だけれど、こうとしか言いようがない)が出てきて、それを拾ってゆくのも楽しい。ただ、ロネッツのカバーだけは、音楽の授業が嫌いだった男子学生が無理やり歌わせられている感じが僕はして、ちょっと気の毒だ。

Giuseppe Verdi: Il TrovatoreGiuseppe Verdi: Il Trovatore
販売元:RCA
発売日:1990-06-26
クチコミを見る


いきなり本題

中学生ときヘッドフォンでジャズを聴いていた。番号順に出たBN番の「ソウルステーション」とかで、極端に右にテナーサックスが振られていて、ステレオ技術というものに疑問をもった(これはリミックスしてあるからそうなっているのだけれど)。

というよりも「すべての音、ど真ん中にきてくれ」と思ったものだ。つまりモノラルだ。「何で、今のCDはみんなステレオなんだろう」と思った。

でも、時流に流されて、結局ステレオの音に慣れてしまって、そういうことを忘れていた。

でも、フィル・スペクターやブライアン・ウィルソン、大滝詠一師匠のように、モノに固執する音楽家に出会い、その疑問がまたふつふつと復活してきて、最近では上記写真のように古い録音を「疑似ステレオ」にしたの悪くないじゃん、とか思うようになって、このことに関して、いろいろ考えていた。


僕の現時点の考え方はこうだ。

「モノもステレオだし、ステレオもモノだ」

ということ。


なぜなら、普通の大きさのスピーカーから5メートル離れてしまえば、ステレオでもモノラルでも関係なくなってしまうということ(そうでしょ)。

モノラルの音は散らされ、健常な耳を二つ持っている人には、ステレオに聞こえるだろう。

逆にステレオも、定位というものの意味がなさなくなり、音がミックスされて、モノ的な音像になるだろう。

そして、そちらの方が「普段耳にしている環境音」に近いという事実(そうでしょ)。


つまり「スピーカーからかなりの距離を保って大音量で聞ける環境を持っている人は、ステレオやモノラルはあまり関係ない」ということになりはしないか?

そういう見方をすると、ステレオ技術というのは、「大音量で聞きたくても聞けない小市民のための技術」ということになる。その究極がウォークマンで、これはステレオ技術の当然行き着く末路であったといえる。

疑似ステはその「距離」を演出してくれる、素敵な技術である。疑似ステぎらいの日本人が多いのは「ウォークマン国民」だということを立派に証明している。

どことは言わないけれど、日本で5.1チャンネルでがんばってリリースを続けているクラシックのレーベルがあるけれど、まぁ、日本的ですわな。

そのレーベルや5.1チャンネルの熱烈な信奉者も存在して、HMVのユーザーズレビューを荒らしていることもあるけれど、その方々は「おうちが狭いんですぅ」と白状しているようなもの。まぁ、だからこそ、ご自慢の5.1チャンネルがその威力を発揮できるわけだけれども(せせら)。

そんな高いCDやオーディオシステムをこしらえる暇があれば、もっと広い一軒家を買った方が、「本物の音楽」に近い音がするのは自明の理だ。木を見て森を見ないとはこのこと。

・・・・と今の自分は思う。

7156b309.jpg山下達郎先生が大滝詠一師匠のレーベルNiagaraに残した音源を集めたLP(そのあたりのいきさつは結構(今だから)面白いエピソードがあるんだけど、ググッてみてね)。最近CD化もされたんだけど、偶然古本屋さんでみつけちゃったんだよね。1800円。

結構レア盤で、実はそのときお金に困ってて、高く換金できるかなって思って(笑)。でも、何度か聞いてたら、愛着がわいてきちゃった。売らねぇよ。

前所有者が針圧めちゃくちゃで聞いてたみたいで、おとがひしゃげちゃってる部分があるけど、まぁいいや。

大滝詠一さんと山下達郎さんの両方のファンってあんまりいないんじゃないかな。自分も、断然大滝派なんだけれど、でもやっぱり聞くと「山下達郎先生も素敵だなぁ」って思う。というよりも、自分の感性に近いのは山下達郎先生のほうだって素直に思う。

音の質感を除いては、とっても曲作り、編曲がモダン(という言葉も古いが)。

特にmaj7の響きを多用していて、素敵。

僕が、ろくに作曲もできなかった頃に、好きな響きがあって、それをピアノで探し当てたのがmaj7の響きだった。

そんな思い出があるせいか、maj7を使われると、「それなんだよな、それ」って無条件で思ってしまう。はかないんだわ、響きがね。

たぶん、山下先生も、好きな響きなんだろうなぁ。モダン、というよりは、自らの完成に素直に従った結果、時代的な誇張がなくて、息の長い音楽になっていったんだろうな。

やっぱり、誇張はいかんよ、誇張は。ね。

田園が聞きたくなって、ワルターではなくフルトヴェングラーをチョイス。

ワルターは初夏、フルトヴェングラーは秋って感じがする。なにはともあれ、非常に上手でした(吉田御大風)(この言い方、ムカつかない?)(でも、吉田御大、尊敬してます)。

ルガノでのライブ盤なんだけど、いい音&雰囲気なんですよ。すこしステレオ・プレゼンスがかかっててね。

あのさ、疑似ステレオっていうと疑似ジンマシン浮き立たせる人達いますけどね、あなたがたが「モノ」だと思ってる音源って大体が疑似ステレオだと思いますよ。

それでも、なぜ「モノ」表記されるのか。それはさ「モノラル録音」という「方式」を示しているのです。「SP録音」「デジタル録音」と同じ意味で。

「SP録音」をステレオ出力と思う人はいないし、「デジタル録音」をモノラル出力と思う人はいない。「録音方式」と「出力方式」が同じ言葉だから放置されていた問題だと思います。

第一、本当のモノラルをあなたがたは知らないと思う。こっそりステレオプレゼンスをかけるレコード会社が減らないのは、売り上げが下がるからなんじゃないでしょうか。

フィル・スペクターは、モノですごく立体的な音を作ってしまった。これはつい最近気付いたことなので、おお威張り出来ないのですが…。まるで騙し絵のようでした(ここは口では説得出来ないところ)(僕の開眼方法は、ヘッドフォンでずーっと聞いた後に、スピーカーで聞き直してみる。ぜひやってみてください)。

ステレオに慣れてしまっている私(達)にとっては、スペクターの狙いが相当見えにくくなっています。オールディーズの一つとしか認識していない方もいるでしょう。が、全然違うんですよ。これは特許と言っても良い。だれもまだスペクターのサウンドを再現出来ていないのだから。特殊なノウハウがあるに違いありません。

「モノラルでも物凄い立体感」の術を得て、さぁて一攫千金、と思った矢先のステレオの普及。だれも「モノラル録音の技術」を欲しなくなった。

「BACK TO MONO」ってスペクターの切なる叫びだったんだと思いますよ。

そういう「モノラル芸術」ではない音源を、モノラルにしようが、ステレオにしようが、大して違わねーってんだよ。ばーか。

26日、27日、28日と父方の田舎、釜石に帰ってました。まだ暑かったですよ〜。今帰りで、釜石鉄道に揺られてます。行きの鎌倉鉄道で武藤敬司さんと乗り合わせてびっくりしました。次の日試合だったようです。頑張ってくださいといったら、ん、ですって(笑)。

で、夜中商店街を散策(唯一の自由時間w)。中古CD屋があったよなぁと探したらあった。すると、さすが釜石というか、大滝詠一師匠の掘り出し物が。それがこの『each time』。『each time』は再発される度に曲順が変わるけれど、本盤は「ドラッグ・レース」から始まり「魔法の瞳」「ガラス壜〜」がカットされる、一番大胆な曲順変更をされている盤。「ベパーミント・ブルー」のような大物が序盤にきていて、かなり新鮮。

あと、キングが出した『大瀧詠一』も。ボートラがなくてスッキリしている。「あつさのせい」の後だったかな、例の無意味なドラムソロが加えられていた。どこにも言及されてない。やはり聞いてみないと分からない。
あと、「バチェラー」もラスト、半音「低く」転調したように思ったけど、これはIGのオリジナルと混同しているかもしれない。

1e24ff58.jpgおこんばんわ。

数日間居留守していました。はいはいどーもすんません(←軽い)。

何故かというと、アナログレコードを聴くのに夢中になっていて投稿どころではなかったのです。

アナログレコードの音質、素晴らしいです。CDの音はニセモノだと思いました。プッチーニ大全集を買いたくなくなったほど。CDというもんにかなり興味なくなってます。今、選択肢がCDしかないのに憤りを覚えるほどです。

普通CDに買い替えたからアナログを処分するのでしょうが、僕は逆になりそうです。アナログの形で発売になっていたものは、そちらが正しいのだと思います。

いま、松田聖子の「風立ちぬ」A面を三回目のリピートさせているところです。このA面は大滝師匠が作曲・編曲・プロデュースしたことで高名ですが、CD選書版をもちろん持っており、それなりに「うむ、確かに女性版ロンバケであるな」とそれなりに楽しんでおりましたが、このアナログの持つ圧倒的な力には、「うむ、」の音もなく、ただただ押し流されるばかり。

選書版は変なバランス悪い音だなて思ってましたが、あぁニセモノなんだとハッキリしました。これで分かったつもりになられちゃ困る、と段々ウザいオヤジになっていることにちょっとは気付いてます(笑)。

ナイアガラとはなんぞや?それはその名のとおり、音楽の奔流である。考えるナイアガラーはニセモノなり。出直されたし。

あぁあぁあぁあぁ(もうわけわからん)

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