カテゴリ:研究論文 > 音楽論

僕は大瀧詠一師匠から卒業した。

あたりまえながら、学ぶべきところはきっとまだまだたくさんある。

しかし、在籍期間は限られているもの。

いつかは否応なく追い出されてしまうのだ。

追い出されてゆくべきものなのだ。



尾崎豊は「この支配からの卒業」と歌った。

それは、在籍期間からの脱却であって、

実は、卒業は2回あるのでる。

人は2度死ぬように。

もう1つの卒業は、潜在的な支配からの卒業なのである。

かんたんに言えば、俗世からの卒業なのではないか?

俗世的なモラルから自由になるとき、

本当の卒業なのではないか。

もちろん、ルールを守らない、という意味ではない。

そこから自由になるということだ。

それを、僕の筆力で説明する頃は、少し難しいのだが。頑張ってみると。

例えば、ごみの分別をするときに、

「これはプラスチックだから、リサイクルごみ」

と考えるのではなく、

「プラスチックは再生可能だから、リサイクルごみなんだな」

と逆にあたりまえに考える。

同じようで、全然違う。

再生できるものは、どんなものなのか?

そして、再生できるのに、燃えるゴミにルールによって分別されてしまっている資源がある、

しかし、そのルールに疑問を抱きながら、平和そうな顔をしている、

それが、精神的な自由なのだ。

これが芸術だともっと簡単だ。

だから、芸術家は芸術を求める。



自由になることはむつかしい。

心がリミッターを掛けるからだ。

しかし、自由は酸素のように実はどこにでもある。

そのリミッターを少しずつ、しかもモラル以上に、

かんたん(といってもむつかしいが)に外してゆけるのが

芸術であり、

自由になる過程を、きっと鑑賞者は感じながら、

同調してゆけるから、芸術は不滅なのだろう。



まだまだ、がんじがらめの僕だが、

少しずつ、外してゆこう。そして、それはきっと受け入れられるはず。

本当は、みんながそれを求めている。

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ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング
やけのはら
felicity/Pヴァイン・レコード
2010-08-04


ラップ素人がラップのことを考える。

ラップで使われている言葉って、とても普段着みたいで、具体性があるなぁ、と思った。物語もなく、ただ単にその人の見る風景がある、その人が思ったことがある。そういう世界に、少しずつ惹かれている自分がいる。

POPSの歌詞って、まぁ、具体的なことを書くと、なんかメロディが乗った時に、あんまり空高く飛んでゆけないというか、地上でのたうち回ってるような、座りの悪さがある。どこか、抽象的に、象徴的に、書かないと、なんか、メロディという鋳型にはまらない気がする。

もちろん、だからこそ、すこし、ドキッとするようなギミックを作詞家は使って、鋳型からすこし外れて個性を出すんでしょうけど。

でも、それって、少し疲れてくる。いや、正直、疲れてきた、というのが正解かな。もともと、そこまで歌詞を書く人間ではないけれど、あんまり、深く考えずに、言葉数多く、ラップしてしまうのも、気持ちがいいのではないかな、と思ってきた。

歌うより、ラップしてしまうと、語りにより近いわけだから、その人の性格ってわかると思うんだ。だから、もっと自分というものをわかってもらえるような気がする。

そして、前のエントリーみたいに、バックトラックは、今までPOPSで培った編曲の技をしっかり使って、丁寧に作って、きちんと聞いてもらう。

僕が突然ラップを始めても驚かないでね。
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ディス・ナイト・イズ・スティル・ヤング
やけのはら
felicity/Pヴァイン・レコード
2010-08-04


ラップとか、おふざけでやったことがあるんだけど。(うしろにいるよってやつ)

メロディがないと、バックトラックによく耳が行くことに、いまさらながらなんですがとっても気づいた。マジックアイみたいに、そこにピントが合った。

歌物でよくありますが、歌を外してバックトラックだけ流すと、初めて聞き取れる音ってある。それが面白くて、カラオケバージョンも併せて聞いている中学生とかは、きっとミュージシャンになる素質があると思うんだけど・・・。

でも、それって、逆に言ってしまえば、「歌が入ったら聞こえなくなってる音」なわけで、それって、「無駄」とも言える。

音の厚みを出すために、いろいろ音を重ねる、フィル・スペクターの影響ってのは今でもめちゃくちゃ強くて、僕もそれが当たり前で、埋もれる音があって当然、とか思っていたけれど、逆に、とてもシンプルなものにも憧れていて、それを示したのが「RI:Cycle(リ・サイクル) [CD]」でもあったんだけど。

でも、それだけじゃない。歌メロディによる意識の持っていかれ方というのは、やはり強烈なのだと思う。

脳みそが、歌が始まると、メロディを追うようにできてしまうのだと思う。カクテルパーティ効果みたいにね(ちょっと二日酔い気味だから、あまりお酒の話はしたくないけど…)。だから、裏でどんなイカしたリフを入れようが、カウンターメロディを入れようが、一般の人には耳に入ってないと思ってよろしい。

だからね、発想を逆転する。

メロディを載せなきゃいいんだと。

メロディを歌わせなきゃいいんだと。

やけのはらさんのラップを聞いて、ものすごくそれに気づかされた。バックトラックがすごく繊細でキレイなんだ。それにかんたんに気づくようになっている。それが、ラップの使用、なのではないかと自分は思った。

やけのはらさんは、ラッパーと呼ばれるより、ミュージシャンと呼ばれたいらしい。これを聞くとそれがとてもよくわかる。トラックが実はとても主役なんだと思う。そういうラップというはあるのだろうか?あるのかもしれないね。僕が知らないだけで。

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最近思うのだが、

自分は感情的な人間だなと思う。

歌を歌う時も、盛り上がりでは、ぐわっと声を出したくなるし、悲しい歌では、それ相応の悲しい表現をしたくなる。RI:Cycle(リ・サイクル) を聞いてくださった方に「パッション」というあだ名をつけられたくらいだから、そうなのだろう。パッションって…パッション屋良ですかって。

ちなみにパッション屋良も好きでした。結局芸人もアーティストも、似たものを好きになるんだろうと思う。

けれど、感情を出せばそれが全部正解なのか、っていうと 絶対そうではなくて。ここは黙っておくほうが利口だよとか、負けるが勝ちだよ、とか、さらっとうたった方が深い悲しみが伝わるんだよ、とか。そんな風に自分と他人の受け取り方の違いを指摘されて、感情をコントロールする方法を学んで成長してゆくものだ。

けれど、コントロールが、いつの間にか、抑制になってしまっていたのが問題なのではいないだろうか。

でも、この話は、また別の機会にしようと思う。歌の話をしたいと思う。

感情のコントロールは、精神的なものだけではない。肉体的なものもとっても大事だということを今日は書きたい。

自分は、感情を高めて、歌うと、歌の粗さが目立つという欠点があった。「雨にも負けず」などは、ドラマチックな曲だと思うが、その欠点を押さえたいがために、わざと、感情あまりこめずに歌ったものだ(それでもへたくそですが)。

感情が高まると、交感神経が働き、筋肉の血流がよくなり、深い息が吸えなくなり、のどや腹や肩の使い方、つまり体の使い方に変化が起こる。普段と違う状態になり、声がおかしくなってしまうのだろう。

しかし、声を、肉体を鍛えると、その感情の変化を体がしっかりと支えてくれることに気が付いた。体がしっかりと支えてくれる自信があれば、さらに複雑で大きな感情を表に出すことが出来るようになる。

これは新しい発見だった。そして、それは、日常生活にも影響を与えた。

感情を表に出さないことが美徳と、日本人はされてきた。けれど、それは、体つきなども影響があったのではないか。

チビでも、生意気な口をたたくヤツとかに、恐れを感じるのは、その感情を支える肉体的強靭さを錯覚させるからではないのか。小学校の時いたけどね、蹴とばしてやったけど(笑)。

引きこもりのオタクが、いっぱしの人生を語るのに不快感を感じるのは、病的な生活をしているくせに、という先入観があるのかもしれない。

頭だけじゃダメなのだ、体だけでもダメなのだ。

感情を表に出すという経験をして、それを受け入れてもらえると(正確にいうと、受け入れてもらおうがもらうまいが、気にしないようになると)、それだけ、自信につながってくるのではないか。

人生上手くいかないことが多いが、心と体が伴えば、ある程度、自分の人生をコントロールできるのではないかと思っている。初めから上手く行かないことを望まないようになるような気がする。

10年ぶりにマラソンを再開しての雑談。最近、少し生意気になってきた自戒として。

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久しぶりに作曲す

とある高齢者を対象とするイベントで必要となり、note' n notesの新曲を書きました。パソコンとにらめっこしてたせいか、ピアノ触って作曲するの久しぶりな感じするな。

まゆっちょさん、作詞一週間で頑張ってくれたので、僕もがんばりました。

 いままでにないテイスト。高齢者を相手にするので、ゆったりと歌う必要があり、さらにそれをなじみやすい5音階を主体にすると、不思議と、ちょっとゴスペルっぽくなったというか。後半のサビでフェイクを効かせまくるというか。後半、今までにないような伊藤の絡みが(笑)。

縛り大好きッ子

だから、企画とか競作って好きなんですよね。企画で、「ゆっくりうたう」という縛りが必要となる。さらに「文字」の制約が出来る。そこでいかに結果が出せるかというのがたまらなく好き。縛り大好きって・・俺はMか!!

でも「涙の場面で使える曲を」というような制約は勘弁してほしいんだなぁ。それは聴き手や使い手の想像力の問題であって。あくまでテクニカルな部分。「5秒で転調10回!」とか「五文字で3分ひっぱる」とか、そういう方が不思議なくらいテンションあがる。

そういや30秒ジングルで賞もらってるし「いちめんのなのはな」だけで作曲したりね。全く整ってない「雨にも負けず」の詞で作曲したりね。そういう方が得意なのかもしれない。

だから、自分の詞で作曲するのもあまりしないのもそのせい。自分の都合に合わせちゃうんだよね。

でもね、そろそろ、自分も、自分の思うところを歌にしてゆく時期なのじゃないかなと思っている。

話がそれましたが、まゆっちょは大変気に入ってくれました、よかった。

自分の声でデモを作ったのですが、これが女性に歌われるといったいどうなるんだろうと、これはちょっと想像できないです。まゆっちょの声で聞くのが楽しみです。

前回の反省を踏まえ

Happiology(ハピオロジー) [CD]」での反省を踏まえ、ちゃんとデモトラックも本番で使えるように、しっかりと弾きました。これをまたあとで修正するのすげえめんどくさいんだ。

それを前回の制作から学びました。

後は、ここに、オルガンとかサックスとか、ストリングスとかを被せてゆく予定。ベースとかドラムは入れない予定。

「一肩抜けた」

たぶん、これがまだCDが出てないうちなら、もう少しウケ要素をちりばめて(非ウケ要素を排除して)いったのかもしれないけれど、今回は、「一皮むけた」ならぬ「一肩抜けた」感じがあります。

「これでいっか」と。

たぶん、高齢者にゴスペル調とか、冒険だと思うんですよね。前例もないでしょうし。後半に、伊藤の不思議な絡みも、聴き馴染みのないものでしょう。

でも、まぁ、うけなくてもいっか、と。せっかくく作ったんだし。

音楽は自由に作るものだしね。

Happiology(ハピオロジー) [CD]」は、本当に出来に満足していて、これが出せたのはほんとうに幸せなことで。このなかには、自分の中にある、「みんなに好きになってほしい音楽」が完全に入っているんですよ、ということに最近気付いた。

結局、音楽作るって、「自分の好きな音楽をみんなも好きになって欲しいです!」っていう気持ちの表明だと思うんです、ということに最近気づいた。

自分の好きな音楽は、たくさんあって、その中で、「きっと一番抵抗なく好きになってもらえるだろう」というものをきっと「Happiology(ハピオロジー) [CD]」では無意識に選びとっていたんだと思う。

で、それを原点として出しちゃった後は、「そういうのでしたら、それを聴いていただいてですね、実はこんなのもあるんですよ」と軽く言えるようになったような気がする。わけわからんでしょうが。

つまり、失敗を恐れなくなったかなってこと。

「自分の素を出して、それが売れればラッキーだったね、売れなければ残念だったね。でも芸術って素を出すものだよね」

そんな風に思う今日この頃です。


アルバムダイジェスト

 
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今日はいつもお世話になっているPizzeria Buono Buonoに行ってきました。店長のシゲちゃんと話してて、先日書いた作詞論がまとまったので、とりあえず覚えているうちに吐き出すね。

歌には3段階あります。(!!!!先に言っておきますが、これは優劣ではありません!!!!)

1.歌詞の意味を伝える
2.歌詞の意味が消える
3.歌詞の意味が表現できる

1.これは言葉が言葉として伝わっている段階。私の考えとしては、これはまだ「歌」ではない。「電車男」が小説と呼ばれないのと同じ理由。でももちろん心を打つことが出来る。むしろ2よりはよほど。

2.これは歌いこんでいくと現れる現象。この時は、正直誰かの心をノックすることは難しいと思う。厳しく長い時期。「うまいけれど心を打たない」歌手はこれに当たるのではないか?歌とは何かということをしっかり考え始める時期。

3.2を突き抜けると、ここに達してしまう。ここになると完全に歌が歌である状態。つ言葉の意味が消え、けれど、その言葉を含め、歌の風景を「声」だけで表現できてしまう境地。

以上



なぜこんなことを言い出したかというと、ミクシーの日記で、友達で尊敬しているコミックシンガー弱つよむさんにコメントをいただいたから。良い機会だと思うので真剣に考えてみた。

超大御所シンガーソングライターが「歌詞なんて意味なんかないよ」という発言があるけれども、それは3のことを言っているのであって、これは彼らしいちょっと意地悪いトラップ。これは歌詞論のようでいて、実は歌手論なのだ。

3の段階の歌手は瞬時に歌の世界を把握して歌詞の意味を消して「世界の表出」が出来る人。そういう人にとってはまさに「歌詞」なんて不要。1の段階の初心者がまねすると大怪我する。

2から3に達するのを「才能」と呼ぶ人もいるし、初めから3にいることを「才能」と呼ぶ人もいる。でも3に行かずに(行けずに)、1の頂点にむかおうとするのも「才能」。

つまり、才能とは自分であること、だと思う。はいはい、固い話おしまい。

またアップしました。これで計三曲。

雪のようにまっ白いコート←今回うpしたもの。
http://www.youtube.com/watch?v=UsMumltJr3E

クッキー
http://www.youtube.com/watch?v=futa-u0-ykI

好きな名前
http://www.youtube.com/watch?v=EAWYGlt_Ahs


また、本多君の詞だけど、なんだか寂しい曲ばかりだなぁ(笑)。まだちょっとしんみり路線、続く予定です。

これ聞いて分かるけど、ピアノの表現がまだまだですよね。

明日note'n notesのライブで、今日練習してきたときにも感じたのだけれど、ピアノだけを主に弾くようになって、この楽器の可能性に気づいてきた。いまは結構感情の赴くままに弾いてしまっているけれど「ちょっと表情過多」と言われてしまう日がくるかもしれません。そういう「聞き手」「弾き手」の感じ方の相違に関しては、まったく培った経験がないので、これからということになります。

22歳から弾き語りしてきてなんで今さら気づくの馬鹿じゃないのと思われるかもしれませんが、でも、また突き詰めたい課題が出来たことは良いことかなって思います。

これに気づくと、良い楽器で弾くのがとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっても楽しみになるってメリットもあります。練習中も感情を込めているつもりだけれど、本番中は「無遠慮」で込めても怒られない(笑)。これ、とても良い環境。

それもこれもnote'n notesをやったからですよね。本当に感謝です。

明日は四谷天窓コンフォートの可愛いグランドピアノでがっつりやってきますよ〜。そして、まゆっちょをどんどんあおっちゃうんだ(笑)。

でも、ちょっと平日で雨の予報もありお客様の足が心配…。ぜひぜひぜひぜひ、よろしくお願いします!!!


9月8日(火) 四谷天窓.comfort(夜)
時間:18:30 ~(OPEN) 19:00~(START)
出演:note'n notes/ヤカマキコ/ほわいとぴーなつ/他
料金:1,500円+1ドリンク
予約不要です。当日の窓口で「note'n notesを聴きにきた」とお伝えください!

僕はピアノという楽器に愛着がありません。

作曲の道具、と思っていました。

正確に音符を打ち鳴らす機械だと思っていました。

ピアノの音色で癒されると言う人を信じませんでした。

さて、先日、5月3日の四谷天窓.Comfortのnote'n notesのライブ。

驚きました、こんなにピアノとは美しい音色だったなんて…。

今まで、グランド・ピアノで弾き語りしたことはあります。ですが、それはPAで増幅された、生音ではなかったのです。

四谷天窓.Comfortは違いました。スバラシイピアノの生音がフワッと会場を包み混みます。癒されます。

響きがすでに物語を持っています。「田舎」が映えたのはそのせいでしょうか?我田引水になってしまいますが、自分の描いたコード進行の瑞々しさに驚きました。

もちろん響きに頼りすぎた作曲というのは邪道でしょう。

しかし、響きに頼れない、骨身の作曲をずっと続けて来た私にとって、まさに四谷天窓.Comfortは素晴らしいご褒美でした。私の曲はまさにシンデレラです。

つまらないピアノ弾き語りをたくさん見てきました。多分、そういう方々は、お嬢様とかぼっちゃんで、始めからいいピアノを与えられた人なのかも知れません。だからピアノの響きに頼りすぎ、本当の曲の力を見つめる機会を持たなかったのかも知れません。

その点、私の曲は、裸足で荒野を駆け回っていたようなワンパクばかりなので、ガタイが良く、高級スーツもとても良く似合います(もうやめます自画自賛…)。

僕は曲を聞くとき、服を見ません。服の下の筋肉や骨格を看破します。それは、僕の作曲の基本姿勢でもあります。

とにかく、四谷天窓.Comfortのライブ後、僕はピアノという楽器を愛し始めるのを感じました。もっと彼女の美しさを引き出してあげたい、そう思いました。

次回の四谷天窓.Comfortのライブが早くも楽しみです。

僕は歌詞が先にあった方が作曲しやすいと、ことあるごとに言ってます。

それについて上手い説明が出来ずにいたのですが、今日を歯を磨いている時にいい表現を見つけました。

歌のメロディを先に書くということは、期待される文字数とかを想定しながら書いている訳です。

でも実は、その文字数とかには、実は明確な根拠を持ってないことが多々あります。

じゃあ、なぜそのメロディを書いたのか。それが自分で分からなくなってきます。ことにサビ以外のメロディなどそうです。意味を感じないのです。それに歌詞を付けてくれなんて私には言えません(私自身にも)。

それは、言うなれば、自分の家具やら壁紙を赤で統一して、まだ見ぬ彼女に赤が好きであることを期待するようなものです(笑)。

もっと言うなれば、後付けの歌詞はなんとなく「婿養子」という感じがします(笑)。もちろん養子が悪い訳ではないのですが、嫁ぎ先では恐縮の日々なのではないでしょうか(笑)。

同じ喩えで遊べば、歌詞が先にありきだと、「恋愛結婚」ですよね(笑)。もちろん恋愛結婚にも良い面悪い面あります(笑)。

メロディと歌詞が同時にでてくるのは「一卵性双子」ではないでしょうか。だからマレなことではあります。

まとめ。やはり歌という音楽ジャンルで一番大事なのは歌詞だとおもいます。それを、メロディで制限してしまっては絶対にいけないのです。

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