「旋律は歌であるが、歌は旋律ではない」

こんばんは。伊藤です。

今日、とある会社のマスタリング前の音源が手に入った。ちょっと貴重である。聞いてみると、確かに宅録のようなインディさは確かにあった。でも、これはこれで、気持ちいいけどなぁ。

でもびっくりしたのが、その演奏の精彩のなさ。できるだけ音の情報量は大きく正確に入れました、というような感じ。これがマスタリングを経ると見違える訳だから恐ろしい。

「あとで何とでもなるんだから、大きく正しい発音で歌うことだけ心掛ければ良いから」なんて言われるのかな。もはやこれは歌じゃないね。

そういうつもりで書いたわけではないんだけど、冒頭のワタクシの格言がぴったり当てはまる。

世界進出とかいうアーチストも沢山いるけど、まずは日本人の心を打たなくちゃ。そして「これが日本で一番人気です」と紹介されて海外に出て行かなくちゃ。

歌というのはすごく個人的なもので、言語が入るわけだから閉鎖的なものでもある。僕たちが言語の意味も分からず洋楽を聞いているのは、本当はとても恥ずかしい行為だと気付かなくてはならない。「歌は旋律ではない」のだ。西洋人の「個人的」の範疇にも入れずに蚊帳の外で騒いでいるだけ。

日本のポップスが海外に出て行けないのは、それだけ海外の人の自尊心が強いだけの話だよ。日本人が洋楽を聞いているのはその逆。

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ハイドンのソナタ集が届きましたが、余りにたくさんあって困っています。ハイドンのピアノ・ソナタは何の為に書かれたのかなぁ?

しかし、このシンプルなソナタをいかに聞かせるか、すごく難しいそうですね。どんな綻びもゆるさなそうな、端正なソナタです。あまりに型ばっているので、まるでお見合いです。ややもすれば庭に出て一服したいような…もちろんそんな経験はないのですが(笑)。

第39番を聞いています。地味な曲ですが、素朴な少女みたいでかわいい。冬はちゃんちゃんこ着てね。

しかし、クリーンの素晴らしさはどうだろう。どんなに小さい音でも楽器が鳴り切らせ、許される範囲でテンポをゆらし、歌い抜ける。細かいパッセージに至ってはますます音が透明度を増してくる。本当に素晴らしいピアニストだと思う。

第2楽章冒頭で、長7の和音が鳴り、ドキリとした。さすがハイドン。心では鳴っていたんだね。しかし時代が許ささなかった。でも、その息吹を200年後の一青年が感じたよ。

第3楽章はフレーズごとにテンポやニュアンスを変え、モーツァルトもかくやと思わせる演奏になっている。楽譜にはない間をつくったり、ハイドンを分かりやすく解体してゆく。すごいねぇ、溜め息が出る。イントロの呼び込みはもっと元気良くても良い気がしたけれど。

長く待たされたぶん、長く楽しめそうなセットになりそうです。