2010年08月

人間は、言葉を使って考える。けれど「考え」というのは、(おそらく)言葉以前にあったものだと僕は思う。(「おそらく」と言ったのは、それを実験することはできないから)。

そしてもちろん、言葉よりも「考え」の方が何百倍も偉い。

今年の8月15日、NHKで戦争のドラマをやっていた。戦時中のとある進学校、40人の志願兵を学生たちからどうしても出さなければならない。

そこで、年長の4年生が、全校生徒を集め、大いにプロパンガンダするのだ。それに感銘を受けた後輩たちは、一致団結、全員が志願兵に申し出るという、異常事態に・・・・話はまだまだ続くのだけれど。

ここでも、前記のことをあらためて思ったものだった。人間は言葉を使って考える。ということは、逆に言うと、言葉で人間の考えを操ることが出来るということだ。

しかし、この「考え」というか「思念」と「言葉」には、埋めがたい大きな溝がある、と僕は数年前に気付いた。それに気づいてから、世の中はどうであれ、自分は、きちんと「考えに基づいた言葉」を書きつづろうと思うよになった。

むかしから、「文章が上手い」と言われることがあったが、これは文字通り「奇麗な言葉の流れ」を生み出していただけであって、内容はほとんど取るに足らないものだっとと思う。

「音楽は国境を超える」という陳腐な古い言い回しがあるが、これは「言葉」を用いず、メロディだけによって「思念」に直に訴えることが出来る、ということであろう。

ただ、「唄」になると、メロディが詩の「言葉の流れ」にとらわれることになるので、税関で止まってしまうこともあるだろう。

最近twitterなぞやっているけれども、140文字というとても都合のいい制約があるため、自ら生み出す「言葉の流れ」に酔ってしまっている人(とくに頭のよさそうな人たち)が多いのが目につく。でもまあ、これはどうでもいい。

一番言葉を扱う職業で愚なのが、音楽評論家など、言葉とは違うものを言葉で言い表す人達だ。

音楽評論家を例にとろう。彼らは、結局、音楽が好きなのに、楽譜も読めず、楽器も満足に弾けないのに、音楽に携わっていたいという、甘ったれた人たちなのだ。

そして、彼らのやっていることは、音楽を題材にした文章による「代理音楽」である。

音楽への劣等感を、なまじ長年の執筆経験による(忙しい素人にはとても身につかない)当たり障りのない言葉遣いで、「自らの文章によるメロディ」を聞いてもらいたいだけの悲しい人なのである。

ただし、さすがと思わせる文章をお書きになられる方もいらっしゃる。ただし、音楽の姿を正しく説明するには、おそらく言葉として機能しないくらい、崩壊寸前のものになるように思う。

しかし、そこに踏み込んでしまうと「楽しく読んでもらう評論家のプロ」としてはまずいわけで、最終的には「目新しい言語記号」に逃げ込んでしまうことになる(血の出るような響き)。優れた評論家などは、この先に伝えたいことが絶対あるはずで、それをぜひ「作曲」で我々に提示してくれまいか、と僕は思ったりする。

とにかく、「流れのきれいな言葉」に騙されてはいけない、それを武器にする人間は、ナイフで人を脅すよりもっと罪が深いのだ、ということを書きたかった。

本エントリーと関係ないことだけれど。

私が書店員時代に、ソフトウェアのシステム開発、プロジェクト管理に関する本がよく出版され、またよく売れていた(今もそうだろうけど)。言っている内容も、素人にも十分理解できるような、いうなれば「失敗発見学」「危機管理」「効率のよい仕事の進め方」といった内容のものも多かった。

でも、これって、作曲、特にmidiで作曲する仕方にとても似ているなと何度も思ったものだ。けれど、midiにおいてのこういう本は私の知る限り出版されていない。

それは、システム開発というものが「完成させなきゃ本当に困っちゃうもの」であり、音楽というものが「まあ、あればあったで豊かになれるよね」という差なのだと思う。

音楽の良しあしというのは、結局主観に基づいたものであるし、その技術も、主観に振り分けられた技術であるわけだから、それを客観的に文章に書き示すことなど不可能であるし、そういう文章が巷にあふれたら、それこそ音楽の死を意味することになるだろう。

しかし!!作曲というのは、「1人システム開発」の様相を呈しているのは私は思うに、動かしがたい事実であり、これに関する「万人に共通するノウハウ」というのはもっと語られてしかるべきだと思ったりしている。

例えば、「過食がちになってしまわないためのメンタルケア」とか(笑)。「100パーセントの出来を目指すためになかなか完成できない心理」とか。

けれど100%を目指してはいけないけれど、ドラムのフィルなんかを後回しにして、曲の枠組みだけ作ってしまうと、あとでフィルを加えようとしたときに、細かい修正に時間を取られ、しかもミスも増えてしまう、だから最初に打ち込むべきだ、など。最後のトラックダウンで聴くべきところなど、このあたりはテスト工程とほとんど同じだ。

これらのことを、最近のDTMerは全部やらなくてはならない。過酷な家業だけれど、だからこそやりがいがあるともいえる。

それだけにベーシックの「作曲」の部分に関する美意識・価値観はとりあえず定まっているつもりなので(というより筆跡と同じで変えようがない)、「DTM」のレベルをさらに磨いてゆきたい。これ31歳の誓いw そう、今日でワタシ31歳です〜。

で、前置きが随分長くなってしまいましたが。




高校野球。




まず、前提として。僕は高校野球はとてもいいものだと思う

捕鯨運動はとてもいいものだと思う、分煙はとてもいいものだと思う。そういうたぐいの「とてもいいものだと思う」という言葉の使い方だと思ってほしい。

時代による価値・判断の揺らぎやすさ認めたうえで、現在アドバンテージに立っている上で、対岸の人々に堂々とできない肯定の態度である。

で、だ。

ちょと、高校野球の各種報道を見て、ちょっといろいろ疑問に思い、あえてこんなことを書いてみようと思う。



この地球温暖化、ましてや熱中症で100人以上の人が死ぬ昨今、炎天下の下であんなに激しい運動をさせるなんて、ほとんど「お前ら死ね」と言っているようなものではないだろうか。それを見て喜んでいる人たちは、公開処刑を見て楽しんでいるようなものなのではないか。

ツイッターで、こんな趣旨の事がリツイートされてきた(多分晒し的な意味で)。「高校生は、もっと良好な環境でプレーすればもっといい試合が出来るのです」。

この意見に、基本的に賛成する。というよりも、今の環境が酷すぎる。50年前の話じゃないのだ。しかも野球のユニフォームというのは基本的に2枚以上重ね着しており、通気性の悪いデザインのものもあるだろう。こんなリツイートもあった。

「(優勝した)沖縄代表は、暑さ対策のために雨合羽を着て練習していた。勝つのは当然」

これも言っている意味は分かるけれど、これが事実だとしたら、そこまで練習させていいのだろうか。いつかだれか死んでしまう日がくるに違いない。そして、こんな趣旨のブログの文章を読んだ。

「今年の甲子園はつまらなかった。凡打だと分かると、一塁まで手を抜いて走る選手が多数いた。以下実名・・・」

このブロガーの高校野球に対する執念はゆきすぎているように思うけれど、この選手たちの「手抜き」は、彼らに許された唯一の「自衛」だと僕は感じた。そこまで体力を温存しないと、倒れてしまうのを知っているのだと、僕は思いたい。

そして、一番愚なのは、そういうことを全然考えないで、応援しているバカ者だと思う。

しかし!

しかし、こういう過酷な環境で行われるスポーツが、ドラマを生み(よくよく考えると自分の脳内ででっちあげたものだろうけど)、感動を生むという事実は絶対にあるわけで、僕だって、見れば普通に感動する。けれど、これは高校生という幼い生命の危機と隣り合わせのものであるということを忘れてはいけない。

そういうエキサイティングなエンターテイメントはプロのお仕事である。

けれど、日本というのは、型にはまったプロフェッショナルを排除する傾向がある国である。あまり芸のない芸人や、あまりうまくないな歌手が「味がある」と売れているのがそれをものがっている。それらを支持する人たちにとって、高校野球は格好の嗜好品なのだろう。

ちょっと関係ないが、歌手に「思想」や「詩」を求める国民性はいったい何なんだろう。フランク・シナトラやメル・トーメのような「歌手」が日本に表れる日はくるのだろうか。

で、まとめ。僕は、高校野球は、とてもいいものだと思う

けれど、誰かが試合中に倒れて、残念なことに死亡してしまった際、心の中で「あーあ、だから言わんこっちゃない」と呟き、その後に訪れる、ネット・メディアを問わない論争にも加わることもなく、夏の高校野球が廃止になったら、まぁ、それもまた当然だろうね、今までが不当に楽しませてもらいすぎたんだよ、いままでありがとさん、と思う。

つまり自分は、美味しいところだけを味わって、汚い後処理は他人に任せるという、一番最低の卑怯者だということである。

明日は私の誕生日です。31回目。

20代よりよほどアクティブだわ。この調子でこれからも、頑張るよん。

いろんな人たち。ありがとう。

ちょっと分かりにくいかもしれませんが…。

今日、歌入れを終えて、お昼過ぎに帰ってきた。台風が接近しており、時折しめった突風が吹きつける天候。

部屋はやはり蒸し暑かったので、窓を開けて少しでも暖を逃がそうと思った。

その時、風呂場からものすごい音が。

行ってみると、風呂場の天井裏に通じる薄いふたのようなものが落下している。部屋に吹き込んだ風が、吹き抜ける場所を探して、その風呂場のわずかな隙間にめがけて来たらしい。

こんなことがあるのだなぁと思い、ふたを元の場所に戻し、落下の際に散らばったなにやらよくわからないゴミやカスようなものをシャワーで流し、風呂場のドアををしっかりしめる。

しばらく休憩したのち、出かける用事があるので、ひと風呂浴びるために再び風呂場へ。しかし、そこで不思議なことが。

シャンプーがない。

どこを探しても、ない。昨日の夜は確かにあった。シャンプーで頭を洗ったので。けれどそれが今ない。死角となるような場所もないし、おかしすぎる。

空き巣? 

しかし、空き巣がそんなにちっぽけなものを盗むはずがない。となると・・・。

隣人?

色々騒音のことを文句言っている、その仕返しなのか?

「お前の部屋はお見通しだし、自由に行き来できる。第一、お前、コンビニとか鍵かけないで行かない方がいいんじゃないかな〜。ん、合鍵?持ってないこともないかもしれないね〜。まあ、とりあえず、シャンプーがなくなったってことから色々判断してみてよ」

く、腐れ外道め!

しかし、現実的じゃないな…。昨日の夜から一度も外出していないし、朝スタジオに行くときには隣人はもうどちらもいなかったから(よく見てる)。

は、もしかしたら、先ほどの風呂場の天井裏から、どの部屋でも行き来出来てしまう構造なのかもしれない。そしたら、ものすごく問題のある建物だということになる。調べてみないと。

便器と浴槽の淵に足を載せて(ユニットバスです)、先ほど外れた風呂の天井裏の蓋をもう一度外し、顔を突っ込む。もちろん暗闇で、蒸された古い空気が充満している。一言でいってあまり開けたくないところだ。

四方壁に囲まれており、どう見ても通り抜けることが出来ない空間だと知り安心する。そして、一つ見慣れたものが転がっていた。

行方不明になっていたシャンプーだった。

つまりこういうことだ。天井裏のふたが落ちたときに、(信じられないけれど)上手い角度でシャンプーに当たり、1メートル以上上空の天井裏に跳ねあげられてしまって、行方不明。ということだ。

これもにわかに信じられないけれど、空き巣はともかくとして、隣人嫌がらせ説よりは信憑性があるため、こちらを採用するしだいでござる。

長文ありがとうございました。



ちょっと、予想外に新曲が出来てしまいまして…。「昔話(いにしえの話)」です。作詞は「かえるの盆踊り」でも共作した、美姫さんのお母さんです。どうもありがとうデス。美姫さんのお母様が新作を書かれていて、書かずにはいられなくなったということです。よって美姫さんバージョンの「昔話」もあります。ぜひこちらも素敵なので聴いてみてください。

▼美姫さん版「昔話(いにしえの話)」▼
http://www.geocities.jp/kurosuke2cat/new_page_65.htm

理由あってニコニコだけに投稿しています。理由は見てくれると分かると思うのですが(笑)、YouTubeに投稿も考えているのですが、ちょっと動画を変えなくてはいけませんノデ、またあとになると思います。

というわけで、今度こそうらじゃ等の音源に取り掛からなくては。では。…あ、あと音楽展望のページにMP3あるので、よろしければ。最新のラジオもよろしく〜。

▼伊藤龍太の音楽展望▼
http://www.voiceblog.jp/ryotaito/

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