2009年11月


http://www.youtube.com/watch?v=1JZ2GpGbGYk

今月から、毎月一曲ずつSONARで作った曲をYOUTUBEにアップしてゆこうと思います。

今月は宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」に曲を付けたものをアップします。先日の作業報告ものこの曲のことでした。

「雨ニモマケズ」は複数の作曲家に曲を付けられていますが、散文詩なので、有節歌曲(1番、2番という型)にすることはできません。よって同じメロディは二度と出てきません。各段落の作者の心をくみ取り、それにふさわしいメロディを探ってゆきました。

この曲は声に力のある、オペラ歌手に歌っていただくことを想定して作曲しました。なのでバックはオーケストラになっています。歌は自分で歌っていますが、声に力がないので、盛り上がる部分はダブルトラックにしています。

でも、別のアプローチも考えられる深みのある詩です。また機会があれば、新たなメロディをつけてみようと思っています。

この曲を使っていただける方、きれいな音源で聞きたい方、歌ってみたいのでカラオケが欲しいとい方、ご一報ください。奇麗な音源でお送りいたします。

きのう豆三郎が、デートするはずだったの。
それできのう豆三郎が、複数を演奏した。

*このエントリは、ブログペットの「豆三郎」が書きました。

11/27日

一時間走る。完全に体が起きていたので、2週間ぶりのランでもすいすい。

11/28

高尾山に紅葉を見に行く。高尾山に行くのは初めて。
遠いような近いような微妙な距離だった。

リフトに乗って中腹までいき、そこから山頂を目指す。
地面がやっぱりでこぼこなので、予期せぬ動きに、普段使わない筋肉を使用しているのが分かる。上流から下流に流れ、角を削られる小石のように、体も引き締められてゆくのではないかなと想像したりする。

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↑リフトからの風景↑

山頂に向かうに従って缶コーヒーやアイスクリームの値段が10円ずつ上がってゆくのが面白い。デフレ傾向も高尾山では無縁のようである。

もちろん山頂へボーっと向かうだけの道だけではなくて、いろいろ回り道や別ルートがいくつもある。この「体験していない感」が何とももどかしくて、「また来るか」の気持を掻きたててくれる。

「山か海か」と二極化した質問がよくあるが、「山も面白いな」と歩きながら思った。昔よく家族と山へ行った。その楽しかった刷り込みがあるのかもしれないと思ったけれど実際のところよくわからない。でも多少はあるんじゃないかなと思う。ただ、やっぱり黙々と歩くのが好きだ。

営業トークしたり、デートとしての利用は自分には無理だなって思った。物思いに馳せて歩いて、おもいついたことをぽろっと口にしてうなずいてくれるだけの相手がいい。自分ってすごくわがままなんだと思う。

いろんなところにある売店や食堂は、シャバの値段の何倍の価格が付けられていて、僕はこういうのが許せない。食堂なんか絶対入るものか。入っている人間を軽蔑さえする。

でも、これの偏屈さは、思い返すと、昔っから自分の母の台詞であった。「こういうところは高いから」と。それが自分にも染みついてしまっているのだと暗い気分になった。でも、実際「自分の思念」として染みついてしまっているので、これを覆すことはできない。高尾山もデフレの波に逆らい続けるのは難しいだろう。

帰りはリフトを使わず(これもセコいから)、歩いて下山。雨も降っていないのに、地面が湿っているところがあって、土に触ってみた入りした。水の匂いがした。突然冷え込んできて、息が白くなったので驚いた。山の霊的な力かとも思ったが、駅のホームでも同じく白い息が出て、ロマンチック気取っていた自分を恥じた。

高尾山のもうひとつのいいところは、帰りにきちんと座れることである。高尾で中央線に、中野で乗り換えると、東西線は始発だからすわれる。寝不足だったので、ぐっすり寝むった。

ちょっと間が空いちゃった。

いま2曲制作中で、1曲は歌モノなんだけでも、もうひとつはインストもので、8分の6のリズムのバラード。イメージとして、モーツァルトのP協21番の第二楽章のような感じにしたかった。

リズムを確か2本のホルンで刻んでたよなとその通りつくっていたんだけど、どうも行き詰まってしまった。CDで確認するのプライドが許さなかったんだけど、ボツにしようかとまで思いつめていたから、だったら確認しちゃえと思って聴いてみたら、弦で刻んでいた。ホルンのトラックにあったクリップを弦のところにそのまま移行(便利すぎるわ)。おぉぉ。

それ以降はするすると進めることができている。ホルンで刻むわけないじゃん。死んじゃうよホルン奏者(笑)。あぁ駄目だな、勉強しないとって心の底から思った。モーツァルトはハイドンのロシア弦楽四重奏を丸々写譜し勉強したらしいけれど、私もこの楽章を写譜しよう。

余談だけど、文章もうまくなりたくて、これをいつか写本しようと思っているものが何冊かあるのです。

でも、こういうオケ曲を作る時は、ピアノロールだと、なかなか難しいなって思った。

もう一曲の歌物は今日歌入れする予定。これから朝にかけてインストも完成させる予定。夜更かしが巡り巡って、さっき起床しました(笑)。今日で周期がもどるかな。明日はピクニックだしね。

豆三郎がりょうたは投函するはずだったの。

*このエントリは、ブログペットの「豆三郎」が書きました。

本多君に、フライング・キッズのライブに赤坂ブリッツに連れて行ってもらいました。ありがとう。

フライング・キッズと言えば、僕らの世代は「Discovery」とか「暗闇でキッス」とか「真夏のブリザード」とか「風の吹きぬける場所」とかを良く知っている。というか、それくらいしか知らないわけであります。

本多君が今回フライング・キッズのライブに行った理由は、ご執心のDiggy Moがゲスト出演するからということでした。

ライブの名前が「ファンタじゃないよファンクだよ」というもので、確かにこれでもか、これでもかのファンク・チューンが延々と演奏されていました。後で調べてみると、Wikiぺディアにも「ファンク・バンド」とカテゴライズされており、僕らの認識が間違っていたのだと反省しました。

でも、一番最後のあたりに、知っている曲がぼちぼちと披露され始めました。「風の吹きぬける場所」が聴けたのは本当にうれしかった。懐かしいとくちずさんじゃうもんだね。この曲本当に好きです。自分の中で、POPSの最高の理想の一つです。



Victor公式チャンネルだから張って問題ないのよね。

本多君いわく「Discoveryのイントロが一番盛り上がってた」とのこと。あまりに意味深長な問題なので深入りは避けて、でもアンコールが弱弱しかったのは本当に残念だった。あれはなんだったんだろうね。

イカ天世代からのファンも、そろそろ跳ねたり、腕を振ったりするのがしんどくなる年齢だろうし、ずっとアゲアゲの曲ばかり続いて疲れてしまったのかもしれない。

そうそう、本多君に言われて「やっぱり」と思ったのですが、浜崎さんがヘッドライトを手に持って、観客の方に向けることがあったのだけれど、ワタクシ、集中砲火を浴びていたらしいです(笑)。すごくまぶしかったけど、僕だけじゃあるまいと思っていたのですが〜。というよりも、歌っているときも何度も何度も目が合ったし(笑)。町ですれ違ったら浜崎さんに「あ、あの時のヤロー」と気付かれちゃうんじゃと思うほど。

一人ノリが悪いのがいるのがずっと気になっていたのかな。ホントごめんなさい。僕、心で跳ねてたんで。あと演奏とかじっくり聞いていたんで。でもうれしかったYO。

liliモーツアルト・ピアノ・ソナタ全集
アーティスト:クラウス(リリー)
販売元:EMIミュージック・ジャパン
発売日:1991-01-30
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先日お話した通り、ブック・オフで激レアなEMI盤リリー・クラウスのモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集(旧録音)を発見し、相場より30%オフくらいだったので購入しました。

新星堂盤も結構聞いたのですが、それは他に選択肢がなかっただけで、とにかくその演奏の荒っぽさだけが印象に残っていました。

そんなに音の違いで、演奏の優劣が揺らぐはずがないし、そういう「音質音質」と一つ覚えにのたまふ輩を「温室バカ」と名付けているワタクシではありますし、正直「やっぱりな」と確認してからディスクユニオンなり、ヤフー・オークションなどに売り飛ばして元本を取り戻そうと思っていました。

ビビっと直観的に分かったわけではないですし、音の違いで感銘度が変わるとかやっぱり信じたくないのですけど、どうも、そういうことも起こらなくもないのだなと言わなくてはならないと思った次第です。

いろんな「あれ?」の連続でした。たとえば「トルコ行進曲」。新星堂盤だと、どうもセカセカした、せわしない演奏のように聞こえたのですが、EMI盤だと、すーーーーっと柔らかい水が音を立てずに流れてゆくような、滑らかな演奏のように感じたのです。宇野功芳さんは「装飾音が羽毛のようだ」と書かれていましたが、それはEMI盤でしか感じることができません。

ソナチネとして有名なK545ですが、新星堂・・・変換するのが面倒になってきたのでSと書きますね・・・・Sだととてもへたくそな演奏に聞こえるし、技術をもてあましている部分が散見されるのですが、EMI盤だと慈しんで弾いていて、そのクラウスの優しさに聴き手も癒される・・・そんな演奏です。

モーツァルトのソナタで一番好きなK332ですが、効果的な短調の左手のアクセントなど、Sだととても乱暴に聞こえ、がっかりしました。終楽章の何度も出てくる息の長いスケールに、クラウスのテクニックばかり案じてしまい、どうも音楽を楽しめるに至らなかったのに、EMI盤だとすべての表情が自然に繋がって聞こえ、テクニックに心配するなどということもなかったのです。

本当に、こんなことは信じたくないのですが、素直にそう思ったのです。音だけ聞いてもSとEMI、何が違うのか明確に提示することができません。けれど、総合の感銘度に大きな開きがあります。それを「音がよい」というなら、賛成せざるを得ないでしょう。逆にいえば「いい演奏はいい音をしている」ということになるでしょう。逆はもちろん真ではありません。まず感動に合わせられた音の解像度であるなら、それが高い低いとか意味をもたないのです。

今まで、クラウスのモーツァルトを聞くという考えを捨て、とにかく曲だけに耳を傾けようと腐心していた私ですが、EMI盤だと、好んでクラウスの術中にはまってやろうではないか、と思えるのです。EMI盤の方が「気にせず聞ける」のです。Sは「聞いているんだな」と常に意識している(させられている)感じがします。

クラウスのピアノの演奏は、どこかおとぎ話のような懐かしさを含んでいる。それを知ったのがシューベルトの「即興曲集」だったのですが、もっと前からそれはあったのだということを知りました。

こんにちは。
ブログ通信簿なるものがあってやってみました。

▼ブログ通信簿▼
http://blogreport.labs.goo.ne.jp/tushinbo.rb

最新10件の記事から分析して、年齢などをすっぱ抜いてくれたりする面白いプログラムなのです。

で、僕の結果はこれでした。

tushinbo_img
55歳って(笑)。

まあ「趣味悠々」なブログを書く55歳もいるかもしれないけれどねぇ、けれどねぇ、ヒドイ。ちょっと若者意識しようかなヾ(´ω`=´ω`)ノ

しかも「主張しろ」とな。結構してると思うんだけどな。角が立たないように、見える人だけにチラつかすみたいなことはしていると思うんだけど、そのあたりはやっぱり解析できないのかな。マジショックぅ〜なんですけどぉ♪(←限界)

これ、他人のブログもチェック出来ちゃうので、同年代のあの人とあの人をチェックしたら、おひとかた50代が!!!ワッショイワッショイ。でももうひとかたは20代。くやしいです!!

今日は白菜を食べます。キムチ鍋の元が終わってしまったので、どうすっぺかなぁと思ってcookpadで調べたら、白菜のパスタがおいしそうだったので、それを作ろうかなと。cookpadって、すげーーーーーーーーーーーーーーーwwwwww(←限界)

公共料金を払いがてらブックオフに立ち寄ったら、ぬぁんと!東芝盤のリリー・クラウスのモーツァルト・ソナタ全集が4000円で出ててびっくりしたよ。買っちゃったよ。新星堂盤も持っているのだけど。

僕は昔、クラシック評論家の宇野功芳さん信者で、彼がこの東芝盤の音しか誉めてなかったから、これどうしても聞いてみたかった。

実際聞いてみると、テープヒスノイズをカットした清澄な音づくりで、無音部とかは確かにしーーーんとしてるのだけど、新星堂盤の方もカッチリしていて悪くない気がするなぁ。フォルテで音が潰れるのは相変わらずだし。東芝盤は「ふくれすぎ」って感じがする。ヒスノイズを取るってことは高音をカットするわけだから、相対的にそうなるわな。

でも、音の好みなんて、美人の基準が人それぞれ違うのと同じだし、宮崎あおいタンと高橋マリコチャンのどっち?と問われても「どっちも☆」と答えるしかないよねぇ。

主張してみた。バイバイ!

えーーーいろいろ報告です。

11/14日、note'n notesの渋谷多作でのライブ無事終了。ご来場いただいた皆様、本当に、本当にありがとうございました!!!!差し入れも、本当に毎度毎度すいません。

自分としては、note'n notesの新しい一歩を刻めたライブだったのではないかと思います。これからも応援してくださいね。

そのあと、間髪いれずに、とあるコンテストの音楽づくり。今日なんとかしあげて明日投函。DTMを初めて日も浅いということで、一作品一作品、肩に力を入れすぎていたのだなと反省し、今回いい意味で肩の力が抜けたと思う。ビートが利いた、疾走感のあるインストです。まだまだ、ホンモノの「クラブ系」の音楽には一日の長があると思うのですが、その基本的な作り方が分かっただけも収穫があったと思います。

で、いまDTMコンテストは、結婚式のBGMを募集しているのですが、これに参戦することに決めました!!イメージがわかなかったのですが、イントロを作ったら「いける」と確信しました。制作日数10日と決めました。

それと、同じくDTMコンから臨発的なアレンジのコンペが。これがとても難しいけど楽しそう。これを見たから結婚式BGMに参加しようと思った。一発キメて、勢いを付けて取り掛かりたいと思ったので。でもこれ難しそうだぞ。

あ、あと12月の歌も作らなきゃ!これはもう決まっているんだけどね。昔作ったラップのリメイクです。ちょっとネタが古くなった気もするけれど、「雨ニモマケズ」はちょっとまじめすぎたからね。脱臼する勢いで肩の力を抜いたラップを作ります。

あ、あと就職もしなきゃね(笑)。とにかく忙しきことは良きことかな。

豆三郎がりょうたはメールするはずだったの。

*このエントリは、ブログペットの「豆三郎」が書きました。

死ぬということについて考えてみた。

いろいろ考えをめぐらせたのちに、昔に読んだ養老孟司さんの言葉を思い出した。確か「死が実感できない世の中になっている」というような言葉だったと思う。

最近人が亡くなる時は病院というのが常識。意図的に死が目に触れないように隔離されている。町に死体が転がっていることもないし、猫の死骸は保健所がすぐに引き払ってくれる。だから、死がどのようなものかという実感がわかない。

ショートケーキかチョコレートケーキを選ぶように、何か別のものと同等に「死」が選べてしまうような錯覚があるのかもしれない。けれど「死」は何かと比較できるようなものではないはずだ。

死への恐怖が薄らいでいる。しいては命がかるんじられている。

もし人間が不老不死だったら人間は努力を忘れてしまうかもしれないと友達が言っていたけれど、「死」を想像できない人にも同様の現象が起きるだろうと思う。

逆説的な言い方になるけれど、自殺をする人は自分が死なないと思った人なのかもしれない。だから、その人は死ぬとは思っていないくて、ただ死を選んだだけなのかもしれない。けれど死というのは、想像の及ぶところではなかったと選択後に気づいた・・・かもしれない。

けれど、日常的に死体が転がっている世の中に好き好んで生まれたわけではないのだから、なんとかこの「死の軽さ」という「現代病」に折り合いを付けて各々が生きてゆくしかないのだろう。転んだり、殴られたり、振られたり、骨折したり、そういうリアルな痛みを重力のように体内に取り入れながら成長してゆけば、自ずと死の重さが分かってくると信じたい。

とにかく、現代社会では生き続けることだけで、本当に素晴らしいことだと思う。戦争は起きていなくても、人を殺してゆくシステムはいつの時代も息づいている。

Mahler: Symphonie No.6Mahler: Symphonie No.6
販売元:Deutsche Grammophon
発売日:1995-04-11
おすすめ度:4.5
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今日はエアコンのフィルタの掃除と、そのカバーの掃除をした。ずっと前にフィルタを掃除した時は、埃だけがベリベリと剥がれるくらい分厚い埃の層が出来あがっていたが、今回はそれほどでもないので、濡れたタオルでごしごしこすって、埃を落とした。

それを覆うカバーの方が面倒。細長い通気口に一つ一つに細い棒みたいなもので埃を掻きだしてやらなくてはならない。高いところに設置されているので腕も疲れるし。けれど掃除が終わった時は「弱」でもかなり強力な風力を感じるまでになった。気分がいい。これでいくらか電気代が節約されるだろう。

不要なCDも売っぱらったけれど、一か月分の家賃くらいにしかならなかった。つまりそろそろ年貢の納め時(笑)。正直そろそろ、働きたい気持ちになってきたので、ライブが終わったら職探しを始めようかと思っている。

今日、私の直接知らない人だけれど自殺したという話を聞いた。僕と同じ歳で、うつ病を患い「死にたい」といつも職場で漏らしていたという。いつも母の作ってくれたお弁当が昼食だったという。この話を聞いて僕は涙が出た。その人は輪廻転生を信じてなかったそうなので、本当に文字通り「すべて終了」したのだ。

なぜ今の世の中は、「生きる」というだけで苦痛を伴うようになってしまったのだろうか。「普通に生活出来るだけで幸せ」と語った麻薬中毒者をTVで見たけれど、そのように感じられるために、人は病を抱え込むようになるのか。

未来を見越しすぎるのも良くないのかもしれない。一番最後の未来は「死」であるし、それのために生きているのだと考えると、どうもやりきれなくなる。

最近、加藤和彦さんも自殺してしまった。彼のような偉大な方が自殺してしまうと、自分というちっぽけな船でさえまともに操縦出来ているのかどうか不安になってしまう。

マーラーも死を恐れた作曲家だと言われるけれど、どうも自分とは死生観が違うせいか、今一つ響いてこない。でもこの第6番は最近のお気に入り。だけど、今日の自分には全く響かない。

今日は寒かったけれどマラソンも行った。いつも見かける人も久しぶりにいて、一緒にコースをグルグル回って励みになった。なんだか、今ふと、その人に一声掛けてみたくなった。なんか、すべてがうまく回り出し始めるような深夜の錯覚。

なんか、どんなことを言われたにせよ、生きてるって、いいなって思えそうな気がする。

そうそう、note'n notesのライブが明日あるので、お時間の許しになる方はぜひぜひお越しください。


11月14日(土) 
多作(昼)

時間:12:15~(OPEN)12:30~(START)
出演:note'n notes、他
料金:(前売)1,500円+1ドリンク(前売料金でお入りいただくには要予約になります。メールにてご予約お待ちしてます。→noten-notes@mail.goo.ne.jp
詳細:多作さん2度目のライブになります。要予約となりますので、メールにてご予約お願いします。→noten-notes@mail.goo.ne.jp

Complete Piano Works - Jorg DemusComplete Piano Works - Jorg Demus
アーティスト:Jorg Demus
販売元:Documents
発売日:2009-05-29
クチコミを見る


夜なのに雨がどっと降ってきた。夜の雨って嫌いじゃない。朝起きたら晴れているといればなおいい。けれど明日の予報は雨。だからランニングもお休み。昨日今日と体調悪かったけど走って良かった。明日は早く起きてたっぷり創作に充てようと思う。

で、先日のブーニンが弾いていた「ウィーンの謝肉祭の道化」をデームスのピアノで聴く。一度生で聴くと、突然愛着がわいたりするものだから、やっぱりライブっていいものだと思う。

相方に「シューマンの作風ってリョウタの作風に似ていると思う」と言われて、少々複雑な気持ちになった。

シューマンは、ピアノを始めたのが遅く、さりげない運指が紡ぎだすメロディはあっただろうけど、それを完成させるには理論を避けて通ることはできなかっただろうし、けれどそれでは芸術の本質にどんどん遠ざかっていってしまう・・・ということを理解するほどの「才能」に恵まれた人だったのだと思う。

そのあたりの葛藤を僕はシューマンの音楽から常に感じる。そして勇気づけられる。

自分の作風も、確かに似ているのかもしれない。もっと気楽に作らなくてはと思っているのだけれど。誉められる音楽ではなくて、喜ばれる音楽を。人それぞれ課せられた課題は違うと思うのだけれど、僕の場合はこのしがらみです。



ランニング・・11日12日、各一時間ずつ。

(なんかカレンダーみたいで、走った日にちに○が出来て、一か月で何日走ったか一目でわかるようなブログパーツ、どなたかご存じないですかネ?)

今日はサントリーホールにブーニンを聞きに行きました。

先日のフジコ・ヘミングと同じ会場でしたが、席に響いてくるピアノの音量が違うと感じました。これは物理的な音量ではなくて、やはりピアノを「届かせる技術」というものの差だと思いました。こんなことを言うとぶったまげられると思いますが、フジコの方がブーニンより何枚かウワテだと思いました。

ショパン弾きとして有名なブーニンではありますが、ワルツの常套的なルバートには少々辟易とするものがありました。ショパン、という先入観があり、しばらくはショパンだと思っていた曲がシューマンだと気付いた時は反省しました。しかし、その曲は全く記憶から抜け落ちており、演奏評をすることはできません。ただ、ショパンより生き生きとした演奏だった気がします。

第二部のポロネーズはとても素敵だった。ワルツよりポロネーズの方が音楽に深い意味が込められているような気もしました。とても悲しい調べでした。そのあとは打楽器奏者と一緒にプーランクの「フランス組曲」という曲。初めて聞く曲ですが、これが意外におしゃれでとてもよかった。演奏も生き生きとしていました。

アンコールに、以前と同じように、マズルカから一曲。もう一曲アンコールを聴衆は要求しましたが、ブーニンはある客席を指さした後に両手を合わせて左頬に添えた。「寝ている人がいるから」というアピールでした。会場は笑いが起きましたが、これは「こんな聴衆にアンコールなんかしてやんねぇよ」という意思表示でもありました。でも、眠ってしまうお客さんの気持ちも少しわかる気もしました。

帰る時に思いついたのですが、その時即座に「ノクターン!!!」と叫んでみたら面白かったかもしれません。機転が利かない自分を悔やみました。

今日はブラボーマンこそいませんでしたが、その代り、最近とても多い、アメの包みをかさこそ開ける族がいて、しっかりと集中力をそいでくれました。僕は彼を「キャンディマン」と名付け、撲滅運動を繰り広げたい所存でございます。

2009年11月5日、フジコ・ヘミングを聞きにサントリーホールに行った。フジコを生で聞くのは初めてです。

クラシックを聞きこんでいる人は、フジコ・ヘミングを食わず嫌いしている方も多いと思うのですが、たぶん生で聴けば考えが変わるのではないかと思いました。とてもよかったです。

リスト、ショパン、シューベルト、各々の曲に、フジコの思い出や感情が込められているのが感じられて、その思いに心打たれる、みたいな演奏です。

とても個人的な情感が感じ取れる演奏スタイルであって、これをたとえば、復古的な古楽器演奏や、楽譜の正確な読みとか、そういうモノサシで測ると、フジコの演奏の面白さは見えてこないでしょう。

驚いたのが、その演奏の集中力の高さです。ピアノの前に座った瞬間に、自分の世界に会場を染めあげててしまう吸引力の強さは、凡百の演奏家は足元に及ばないところでしょう。集中力とは言いましたが、その演奏は、逆に、まるで独り言をつぶやいているようでもあり、音楽は終始自然な呼吸に彩られており、すべての音符が生き生きと息づいていました。

ピアノの共鳴板のちょうど真ん前の2階席にいたせいもあるのかもしれませんが、
音量が豊かなのがまた驚きでした。サントリーホールの音響もあるのだと思うのですが、それを抜きにしても、本当にフジコが思い描いている音量が隅々までに響き渡っているような気がしました。

音響と言うのはとても不思議な物で、DTMの話で恐縮ですが、たとえば、ベース音と上げると、なぜか高い周波数が強調されてひずみっぽい音質になってしまったり。メロディを良く響かせたいのなら、メロディの部分だけ強く弾いてもだめということも起こりうると思うのです。意外な伴奏の音が、メロディの音量をグッと引き上げるという現象もおこると思うのです。

その独自のノウハウを身につけるというのは、とにかくたくさん弾くしかないわけで、それはかけがえのない遺産でもあるわけで、そいういう貴重な技をたくさん感じさせてもらえたリサイタルだったと思います。

また、フジコの演奏は、とてもセクシーであったような気もします。人は何も考えずに「女性的演奏」などと評しますが、それはメロディを慈しんだり、レガートを多用したり、そういう表層的な部分しかささないことがほとんどです。

誤解を恐れずいえば、フジコの演奏は、本当の意味で「女性的演奏」であったと思います。たとえば、「リストとはなんぞや」「ショパンとは何ぞや」という理屈が前面に出てくるような演奏は「男性的な演奏」だと思うのです。「女性的演奏」というのは、歴史的正確さとか革新とか、そいういう部分は特に気にせず、とにかく自分の思い出や、感情を自信を持って優先することなのだと思います。リストやショパンはそいういう感情を込める「シロ」がたっぷりあるのだと思います。

だから、第二部のヴァスコ・ヴァッシレフ(Vn) とのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタなどは正直どうかなと思った。ベートーヴェンがそういう演奏をスタイルを受け入れないというところもあるのだと思う。

ベートーヴェンをクラシックの頂点とみなす聞き手(私もそうだけど)にとって、これが胸を打たないというのはとても大きな問題だと思ってしまうけれど、でも、ベートーヴェンだけが音楽なのか、ということだ。リスト、ショパンを弾き続けて、表現を深めてゆくのも素晴らしい芸術だと思う。自分の視野の狭さを反省した次第でございます。

しかしCDって怖いね。全然こういうものが伝わらないのだもの。

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