2007年12月

◆ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調 K364

ヴァイオリン:フランク・ガスマン、キャサリン・モンタヴォン(二人?)

ヴィオラと指揮:セムラ・グリフィス
(↑ほんとかいな?ヴァイオリニストのどちらかがヴィオラちゃうん?)

有名な曲だわな。でも今まで聞いてこなかった。そもそもヴァイオリンとヴィオラの組み合わせというのがピンとこない。そんな意味で、ブラームスのクラリネット・ソナタも出来れば無視したい曲である。お互い「カンツキ」系で、嫌なところだけ助長されるような…まあ音色の好みは、声の好みくらい幅があるだろうけど。

その代わりと言うわけではないけれど、この曲の管弦楽版(ホルン、オーボエ、フルート、ファゴット)は足の指先まで愛してやったものだ、うへへ。

第1楽章…アレグロ・マエストーゾ

なんか、地味な主題だなぁ。チェロのトリル部なんかは、管弦楽版に似ていておおっと思うけど、そこからが平板なんだよね。管弦楽版なら、半音が引きのばされ、音楽をグッと抉るのだけれど。

あぁ…退屈だ。似たような楽器が、同じ事ようなことを繰り返しいる。もうやめてくれ〜。ボケがいない漫談みたい。

展開部は伴奏が止まりハッとするけれど、その後はお決まりのヴァイオリンとヴィオラの長ったらしい「エール交換」。世の中でエール交換ほど馬鹿らしいことはない。かといって、日本のバレーボールのような偏向応援はもっと心が貧しいが。

この曲のどこを聞けば面白いのでしょうか?もっと若い、ヴァイオリン協奏曲の方が全然面白いし、オケもカラフルじゃないか?

第2楽章…アンダンテ

この楽章は短調で好きかも。同じメロディを弾いても、ヴァイオリンとヴィオラで、伝わる悲しみが違うんだなぁと感じる。提示部後半で、ヴァイオリンをヴィオラが追い掛けるところなど、実に、実に、美しいね。

展開部の二重奏も同様で、転調の緊張感もあり、受難や試練を思わせたりもする。カデンツァも、バッハのヴァイオリン・ソナタを思わせる厳しさがあり、思わず耳を傾けさせる。

第3楽章…プレスト

前奏が長い。モーツァルトの協奏曲のフィナーレではかなり珍しいことではないか?しかし可愛らしいメロディだ。不当におあずけを食ったヴァイオリンの奏する第1主題は実に爽やか。

展開部はヴァイオリンとヴィオラの二重奏でまず主題を奏すが、その2梃の弦楽器はほどなくバラバラに扱われ、それぞれ独自に展開されてゆく様はなかなかスリリングだ。もっと、長くこの部分を聴いていたい気もしたけれど。

再現部はまたヴァイオリンとヴィオラが仲良く主題を奏するが、冒頭で表れた、ホルンとオーボエのパッセージも前後して再現され、ヴァイオリンとヴィオラを祝福しているようにも聞こえる。


聴き通してみると、第1楽章以外はすごく良いことが分かった。ヴァイオリンとヴィオラでやる意味も良く伝わって来た。ただ、やっぱり第1楽章がでーんと立ちはだかっていると、やはりなかなか手が伸びなそうだなと言うのも本音である。

今帰りです。いやぁ〜新曲も出来たし満足満足。

けれど最初の「ごまかしブギ」はピアノの音量が小さ過ぎた。途中で気付いてはいたのだけれど、止める事が出来ず。せっかくカッチェ〜リフを弾いてたのに…。Webラジオでもほとんど聞こえてなさそうだなぁ、飛ばして下さい。

「ホンホン小唄」「タイタニック」「三日節」は《音質的には》問題なしだろうなぁ…ふぅ。

帰りにマックで弱さんとおコーヒー。新ネタについて話し合い(アンタいつから芸人に?)、一つのアイディアが浮かぶ。弱さんはまだそれに改善の余地があると考えていたみたいだけど、僕は、それで十分ウケる予感がする。承諾をもらい、有り難く頂戴する。今度ライブの合間にやってみようと思う。

数時間後にWebラジオで聞けるはずなので、お暇なら聞いてみて下さいね。

http://www.fmu.co.jp/

メニューの「WEBラジオ」を選択して、「弱つよむのフニャフニャラヂヲ!」を探してね。

とにかく今年最後、無事仕事納め出来た感じです。良かった良かった。あ、明日も仕事か。

明日(というか今日)30日は、また弱つよむさんのラジオに出させていただきます。前半30分ですが、そのための曲をなんとか2曲書きました。成り行きで披露するしないか決めるけど、明日練習しなくては。

またWEBラジオで数時間後には聞けるはずなのでヨロシクです。

◆交響曲第13番ヘ長調 K112

第1楽章…アレグロ。「ド・ソ・ミ・ド」と明快な開始で良いなぁと思う。若い頃の教会ソナタにも似てるかも。展開部で陰りの強い短調になり、やっぱり三つ子の魂といった感じである。

第2楽章…アンダンテ。馬車がトコトコゆくような、まさにアンダンテ。第2主題の楽しい旋律美はことのほか目立ち、忘れ難い。やはり中間部ではなだらかに短調を滲ませて、名画家の見事な色彩を思わせる。

第3楽章…メヌエット。文句無く優美なメヌエット。たくさんの貴族達が対になってくるくる回っているような感じ。

トリオではリズムを消し、カップルの息を感じる距離にズームアップした感じがする。恋する二人にもはや音楽なんて聞こえない、といった感じね。

第4楽章…アレグロ・モルト。2〜4楽章は曲想は大同小異といった感じだが、この楽章の主題は「ド・ミ・ソソソソ〜」と、第1楽章の主題と逆行していて、全体の統一感を持たせていると考えるのもアリかもしれへん。

トリオは、ほのかにジプシー風味を感じ、ちょっと魅力的だ。ただ、それならボッケリーニの出番かなと思ったりする。

第2楽章で忘れられない交響曲だろうな。

数日前オスカー・ピーターソンが亡くなった。ご冥福を祈りたい。

「いつまで元気でジャズするつもりなのだろうか」と思った人もやはり亡くなってしまう。そんな当然がすごく憎い。たまには200歳まで生きるピアニストがいてもいいじゃないか、と少し願っていた自分がいた。その思いはハンク・ジョーンズに託す事にした。

僕が愛聴したCDは、ちょっと渋いけれど「フィオレッロ」というアルバムで、今でも胸をときめかす青春のアルバム。MPS時代は心打たれず。それよりも、テラークに残したパールマンと組んだものとクリスマスのアルバムが好きだった。今年は聞かなかったけど。

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◆弦楽四重奏曲第17番変ロ長調 K458
(ロ長調と誤植)

第1楽章…アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ

今までのハイドンセットに比べると、明快な感じがするが、すごくシンフォニックでもある。ヴィオラ&チェロ(時に第2ヴァイオリンも)がメロディでも3度の音程差で動く局面が多く、それがこの分厚さを出している気がする。

ただ、正直に書くと、真面目過ぎて退屈だ。

第2楽章…メヌエット。メヌエットが2楽章とは意外だが、やっぱりメヌエットの軽妙さ無視した、分厚い和音が耳に残る。だからこそトリオの軽やかさは、深い森を抜けたようで、爽快である。《狩》というあだ名はここから来ているのだろうか。主部の反復が省略されており、スキップを押さずにすんだのは誠に幸せだった。

第3楽章…アダージョ。やはり分厚い和音が印象的。短調の第2主題が美しく、弦が1音ずつ積み重なって行く第3主題はまるでブルックナーを聞いているみたい。

ただ、この楽章は、ほとんど第1ヴァイオリンしかメロディを牽引しない。ハイドン・セットには珍しくヒネリが利いていない楽章のよう思ったりする。

第4楽章…アレグロ・アッサイ。うーん、この楽章も僕はあまり胸を打たれなかった。この希代のメロディ・メーカーは一体何処へ行ったのかいな?と思う。4挺の弦楽器の限界について考えさせられた。モーツァルトも悩んだのかも知れない。だからこそ、僕にもそれが伝わって来てしまったのかもね。

ちなみに、ハイドン・セットはもう2曲あるが、それはなぜか未収録。残念だけど仕方ない。でも、もうたくさんという気もする。

朝聞いた、ランメルムールのルチアがどうも心に残って仕方ない。帰って今までパリウーギがルチアを歌った全曲盤を聞いて陶酔していた(笑)。カラスのはハイライトだけれど、改めて全曲聞くと、平均的に素朴で美しいメロディが続き、逆の意味で抜粋では伝わらないものがたくさんある事に気付いた。ここだけの話、パリウーギのルチアの方が可哀相で、同情を誘いグッと来たよ。

◆弦楽四重奏曲第16番変ホ長調 K428

演奏:モーツァルテウム・カルテット・ザルツブルク

第1楽章…アレグロ・マ・ノン・トロッポ。いきなりユニゾンで、調性を判別させない旋律を用いたトリッキーな開始。なんとなく、ベートーヴェンの第15番カルテットの第2楽章を思い出すな。

全2曲より、飛躍的に深化してしまっており、たぶんブラインドだとモーツァルトのカルテットだと言い当てる事ができないと思う。多分、「ベートーヴェン!」「残念!ご起立になって、しばらくご辛抱ー!」となったに違いない。

曲的には「2挺のヴァイオリン VS ヴィオラ&チェロ」という感じがする。全くイーブンで曲が進んで行く。その楽しさはまるで交響曲を聞いているような気がするほど。

ただ、展開部や再現部が、主題の可能性に比べて短いのが僕には物足りない。もっと、壮大な4声のフーガになればいいのにと思う。

第2楽章…アンダンテ・コン・モート。たっぷりしたハーモニーがやはりいままでのモーツァルトとはひと味違う。楽器の数が増えたのかと思うくらい。もちろんそんな事はなくて、ヴァイオリンはメロディ、チェロは分散和音を担っている訳だから、残りのヴィオラの奏する音の選択が、完璧に適切だから、ふくよかな和音を生み出せるのだと思ったりする。

そのヴィオラが思い出したようにメロディを弾くところがある。それがヴァイオリンに受け渡されるが、そのメロディは、なんと神々しい響きだろ。たとえが繰り返しで恐縮だが、やはりベートーヴェンのカルテット15番の「癒える者への感謝のメロディ」に近いものを感じたりする。

その受け渡しのメロディが展開部で拡大される。それは、あたかも、四つの巨大な振り子時計が、それぞれにゆっくり時を刻んでるような風景を思わせる。同じ時代に生き、触れ合うことはないが、個々に大切な時間を刻み続けているのだ。

第3楽章…メヌエット。リズムを敢えて殺したり、中間部で全く違う曲想を持って来たり、従来のメヌエットから何とか逸脱しようとするモーツァルトの姿勢が良く伝わって来る。

この曲全体が表現主義が濃厚なので、中間部の短調は意外に映えない。むしろくどい印象を受けた。モーツァルトがどれだけ主観的にこの曲に取り組んでいたかが分かる。

第4楽章…アレグロ・ヴィヴァーチェ。軽快さは保ちつつ、内容のある楽句や、リズムのトリックまでも埋め込まれ、聞いていてもものすごい難曲なのではないかと思ったりする。けれど、第1、第2楽章の深みには達していないような気もする。

この楽章は、一糸乱れぬアンサンブルがなければ心を打たない気がする。モーツァルテウムQは明らかにこの楽章では精度不足を示していた。他楽章も「可」といった感じだ。申し分なく優雅ではあるのだけれど…もっとこの曲は、切り込まなければ良さが伝わらない気がする。さばくのが難しく嫌遠されがちな美味しい魚みたいなものか(違うと思う)。

今日はクリスマスだったね。今年もあとちょっとだね。来年はたぶん引っ越しする気がする。しかも一軒家に。気楽さを最優先。欲を無くせば薄給でもそれくらい出来るだろう。

音楽代だって、今全部聞きに挑戦している「モーツァルト・プレミアム・エディション」のような格安のものを発掘すれば(40枚組2000円強!タワレコで売ってるよ)かなり節約できるし、マラソンと創作に没頭したい。

交際も限られたもの。昨日の本ちゃんとの飲みが最高の贅沢な時間だった。子供の時から、まともな人生を歩まないだろうなと思っていたけれど、やはり念じればそうなってしまうものだ。なぜかあさってモードな今夜のボクチン。クリスマスで疎外感を感じたせいかも。

◆弦楽四重奏曲第15番ト短調 K421

第1楽章…アレグロ。うーん、なんてグッと来る悲しみの旋律。

僕だけかもしれないけど、モーツァルトの短調って、20番タイプと24番タイプに分けられると思うわけぇ〜(←誰?)。もちろんP協奏曲の番号なわけだけれど。《生命の迸り》のような20番タイプと、《虚無たる死》のような24番タイプとにね。

この曲はどっちだろぉなぁと考えた時に、どっちもアリじゃん、という感じがするんですよね。ただ、全体的にはタイプ24かもしれない。でも第1楽章はタイプ20もコンニチワしているような気がするんですよ。それはつまりロマンチックなメロディが出て来るというところで判断していることなんだけれど。

展開部のフーガっぽい緊張感も素晴らしいな。そこを抜けて「残念ながら」と再現部が出て来る辺りは感動的だ。鬱蒼とした茂みを抜け出しても、相変わらず元来た道だったような、ゆきどころのない悲しさを感じる。

第2楽章…アンダンテ。へ長調なんだけれど、短調があちらこちらからコンニチワをする。文化祭のお化け屋敷の手が出る100%人為的なトラップを思い出す。あれは気味が悪いんだな。

関係ないけど、後輩の彼女となぜか一緒に入ったな。きゃしゃな可愛い子で、腕を組ませてやり、初めて女性の胸を感じ、気が狂いそうだった(死)。

こういう「明るいような暗いような」という味はハイドンにはない。「ここは楽しく。次はいきなり暗くぅ〜」というキッパリした味がハイドンにはある。それに慣れてしまうと、モーツァルトの音楽には曖昧模糊とした印象が付きまとう。

けれどそれこそモーツァルトの持ち味だと思う。人間の眠ってる感情を呼び起こす、新しい音の響きを探しているような気がする。トリオのチェロ(かな)が下降する部分は、先進的な和音を含み「どの響きが一番グッときたかなぁ」とモーツァルトに尋ねられている気分。

第3楽章…メヌエット。でも短調。何と言う事だろうなぁ。奇しくも番号が一緒だけれど、主部がね、ベートーヴェンの弦楽四重奏の第15番のスケルツォに似てるんだよな。トリオがリズム遊びになるのもそっくりだし。ベートーヴェンはP協奏曲20番と同じく、この弦楽四重奏もお気に入りだったのかも知れないな。

第4楽章…アレグロ・マ・ノン・トロッポ。変奏曲なり。この楽章も実に素晴らしいね。もう、ハイドンの変奏曲なんて、全く相手にならないな。同じ事を何度も話すジジイのごときがハイドンの変奏曲なら、モーツァルトのそれは、本当に話上手だ。

普通モーツァルトにかぎらず、変奏曲というものは、段々と難しくなるのが定石だけれど、これは最初っから本気なんだよ。もうこうなると誰も相手にならない。それだけモーツアルトが本気ってことだ。

最初っから本気でも、後半でインパクトが無くなることはない。やっぱり聞いている方には手に汗を握らせる、変奏曲的ウマミがきちんとある。熟練の筆である。

感動的なのが最後の変奏。終わったと思ったら、ヴィオラとチェロでコラールのような長い和音が奏でられ、ヴァイオリンが何を伝えたいのか、それを背に高音を切々と奏でる。そして、最後は祈るように長調で結ばれるのだ。あぁ、やはりこれはタイプ24の短調かもしれない。モーツアルトは神に祈らずにはいられないのだ。

今年知った音楽は数あれど、一番の大傑作がこの曲のこの楽章かもしれない。とにかく素晴らし過ぎる。

今日は本多君と飲んで、今後の方向性、将来的展望、身の振り方などなど、真剣に話したわけじゃなかった。タダ飲んで歌ってお終い。

今日彼は久し振りにマラソンしたらしいというメールを受け取ったので、それならと水道橋博士の本をプレゼントするが微妙な表情をされる。キャラがかぶってるからかもしれない。

◆セレナーデ第13番《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》 K525

オケ:カメラータ・ラバチェンシス(?)
指揮:フランチェスコ・マッチ(?)

僕が聞いた中で一番下手な《アイネク》だと思う。弦は毛羽立っているようだし、テンポも慎重にもかかわらず、ミスノートも何度も発している。

ただ、むしろ楽しんだといっていいだろう。モーツァルトは劣った技術を炙り出すために音楽を書いたわけではない。それが良く分かる。ただフィナーレはちょっと地味が過ぎる気がする。

モーツァルトのアイネクは、僕はどの演奏もあきらめている部分があるので、固執しないせいもあるのかもしれない。理想の演奏は僕の心にある。それを他人には求めないさ、フッ。

◆弦楽四重奏曲第14番ト長調《春》 K421

演奏:モーツァルテウム・カルテット・ザルツブルク

第1楽章…アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ K387

実はモーツァルトのカルテットは初めて聞く。第1音から美しさに耳を奪われる。まさに《春》の暖かい空気のような、ふくよかなハーモニーの風圧に思わず目を細める。

ハーモニーは恐ろしいほど濁りがなく、各パートが自由な息遣いで弾いているようで、全体でまとまりがある。四人セットの名人芸だ。モーツァルトの名を冠するだけの事はある。

曲は、どうなんだろうな。全部のパート、楽句が重要に聞こえてしまい、逆に印象に残らない感じがあるかもしれない。それは、この団体の演奏の特徴でもあるのかもしれないけど。ただ、もうメロディや雰囲気で十分にウットリである。

第2楽章…メヌエット。メヌエットの単純さはここにはなく、モーツァルトの妙技を詰め込みまくった、ややごちゃごちゃした主部に、短調のトリオが対比される。

もはやメヌエットという形式では支え切れないほど、飽和状態になっている気がする。メヌエットはやっぱりリズムが命ではないだろうか。メヌエットをスケルツォに置き換え、「リズムを味わう楽章」を明確に打ち出したベートーヴェン然りだ。

第3楽章…アンダンテ・カンタービレ。これは素晴らしい。ヴィオラ→ヴァイオリンと旋律を受け渡したり、形式が怪しくなくなるほど、即興的に新しいメロディを繋げたり、歌う楽章ならではのモーツァルトの新機軸がいちいち新鮮。こういうのを聞くとハイドンは分が悪いかなと思ったりする。

モーツァルテウムはとろけそうな美演なのだけれど、曲がすでに溶けているので、鋳型たりうるものがなくなった感あり、曲の形や真意が伝わりにくくなった気もする。まあ贅沢な注文。

第4楽章…モルト・アレグロ。フーガがしっかりと書き込まれた立派な楽章。ジュピターのコーダのような音形が出て来て興味深い。この楽章が一番形式が明快で、一番聞き映えがする、…と言ったらモーツァルトに気の毒だろうか。

モーツァルテウムはフワッとした柔らかさを失わず、これは実に熟練の技をだと思うのだけれど、こういう楽章では、もうすこし音符に対する冷たいくらいの実務的な処理を求めたい気もする。いやいや、でもでも、なかなかこんなに素晴らしいカルテットはいないのですけど。

◆交響曲第18番ヘ長調 K128

第1楽章…アレグロ。疾走感にあふれる若々しい楽想にあふれており、聞いていて気持ちがよい。でも、本人は真剣だろう。第25番で強烈な印象を残すシンコペーションや、即興的な3連符の萌芽が見られる。

けれどこの純真な旋律美は、このころのモーツァルトしか書けなかったものではないか。青春の香りとしか言い様のないかぐわしさが封じ込まれている。展開部で短調に転じるのも、やはり青春だ。

第2楽章…アンダンティーノ。のどかな森の風景を思わせる。特にフルートの音色が、素朴な味を出している。ホルンとのからみも楽しく牧歌的だ。…ほんとうにまぁ、モーツァルトはこんな書き方しか出来ないな。

変な言い方だけれど、歯医者さんでこの交響曲が流れていたら退屈はしないんだと思う。そう、モーツァルトは聞き手が退屈するのを極度に恐れていた人なのかも知れない。

第3楽章…メヌエット。出だしで根音を隠し、調性を揺らし遊んでいる。トリオもそうだ。安定した形式ならと、むしろ安心して実験を試みているのだと思う。

第4楽章…モルト・アレグレット。第30番以降の交響曲でも通用しそうなガッシリした作りで驚く。第1主題後半で低減がメロディを引き継ぐところなど、第39番をほうふつさせる。第2主題でリズムが打って変わるのも面白い。

提示部最後の「ジャカジャカジャン」はこの楽章でよく使われる音型で、これのおかげで、なんとなく落語のオチが付いた感じがして、イキである。これを集結にはさすがのモーツァルトでも、もっては来られなかったようだ。

いい曲を知れてうれしい。

久しぶりにピアノ弾いて作曲。消えた年金の歌を半分くらいまで作った。30日にまたフニャフニャラジヲに出させて頂けるので、それまでに仕上げたいけれど、ちょっと難しいかもしれない。

最近、歌というのは言葉だと思うようになってきた。言葉さえあれば、メロディは容易に付けられるものだ。今日たまたま聞いたから例にとるけれど、ウェーバーの「魔弾の射手」内で、序曲のメロディが出て来ると、どうも言葉反りが会わない部分が目立つ。つまりメロディ先行で、言葉を押し込んでしまったのだろう。こういうのは真似るべきではない。

自分の曲を振り返ると、僕の曲は、メロディと歌詞が仲が良い曲がほとんどだ。自分では気付かなかったけれど、そういう価値観を知らずと持っていたのだろう。

というわけで、自分は今すごく詞を求めている。相方の本多氏に早く新作を書いて欲しい次第である。

◆交響曲第22番ハ長調

2楽章だけの短い交響曲。今日は22日だから、同じ22番を取り上げてみたというのは大嘘だから騙されるな。ただ時間がないだけだ。

第1楽章…フィナーレともとれそうな勢いのある曲。低弦が8分、ヴィオラ(かな?)が16分で刻み、躍進感を出している。まあ単純と言えば言えるけれど。第1主題は低弦の分散和音に始まるド地味さだけれど、第2主題から木管が絡み始めて、面白みがやや増。

ただ、ベスケケの弛まない指揮で聞くと、やはり単純な刻みもドライブ感に満ち、素晴らしいと思う。

第2楽章…第1楽章よりも、がちゃがちゃと愉快で楽しい気がする。ディヴェルティメントっぽい雰囲気もある。木管の合奏の際、低弦のリズムがフッと消え、木管隊だけが残るが、仲良しな雰囲気を漂わせ、聞いている方も楽しい気分になってくる。

おやすみなさい。

モーツァルトってさ、ボォッと聞いてる分には気持ち良くていいワケよ。でも、ふと「この感動はなぜか」とちょっと耳を凝らすと、すぅっと逃げてしまうんだよ。それが僕にとってはすごくストレスなわけ。

だから、ハイドンのようなマジメな作曲家は、モーツァルトの人気なぞ一時のことだって絶対思ったと思うよ。僕はハイドンばっか聞いた後にモーツァルトを聞くと、すごく「無教養」な印象を受けるんだ。形式もハイドンに比べるとだらしなく崩してしまうし、旋律も伸びたうどんのような締まりのないようなものに聞こえたものだ。

この第16番交響曲は何歳の作なんだろう、一体。10歳前半だろうか。三つ子の魂なんとかだと思う。第1楽章の再現部では、突然思い付いたようにオーボエがオブリガードを吹くが、このオーケストレーションを、まあまだ子供だから、ほほほと笑ってられだろうけれど、それはモーツァルトの基本呼吸だったのは周知のとおり。

第2楽章は、頑張って短いフーガを付け加えているのがかわいらしい。楽しいものをみんな集めちゃえ、というのもモーツァルトの音楽の特徴かもしれない。

フィナーレも可愛らしい小さい舞曲。ブルックナーのスケルツォのようなウキウキ感がある。ロンド形式や、こういう2部形式だと、むしろモーツァルトの美しさが浮き立って来る気がする。メロディが短調に落ち込み、予期せぬ小節数で主題が再現されるところなど、モーツァルトならでは。

だから、モーツァルトはあまり聞き過ぎてはいけないのかもしれない。そういうトリックを感じなくなってしまうから。たまに聞くから良いのだ。

そう、みんなに愛されているようで、実はだれも親身には思っておらず、あっさりと共同墓地に捨てられた可哀相なアマデウス。もうその人生が彼の音楽そのものではないか。

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