2007年08月

今日、海に行って以来、初めて走った。そろそろやばいだろうと思いまして。

で、楽なんですね。走るのが。実家に帰って体重計に乗ったら3キロ減っていたせいかも知れません。涼しかったからかも知れません。遠泳で体力が付いたのかも知れません。晩飯を食べてかなり時間を経ていたのがよかったのかも知れません。そのいずれかが正解のような気がします。

実家から帰るとき、お土産(笑)を担いでかえって来たのですが、その荷物が3キロくらいあるのかな。これを身にまとって歩いていたのか…と思うと、ダイエットってかなり地道な作業なんだなと思いました。

ダイエットは「だるまさんころんだ」方式ですね。とにかく最低は現状維持が目標。

└|∵|┐♪┌|∵|┘└|∵|┐♪┌|∵|┘

フルトヴェングラーのバイロイトの第9がいきなり聞きたくなった。

鑑賞後…やっぱりこれはすごい演奏だなと思った。バイロイト祝祭管弦楽団のミスばかり上げつらう人は心がないと思う。

このただならぬ雰囲気こそがこのCDの宝だと思う。「第9を聞く」というよりは、このフルトヴェングラーの魔術に溺れたいのだと思う。どろっとした暗い世界からの脱却の方程式の解が、このCDで見事に示される。

今までわりと聞き出すまでは敬遠しがちな第3楽章の冒頭を聞いた時に「あーこれこれ、これなんだよな」と非理論的な感想を持ちました。もうそれしか言えないんですよね。

僕にとって、ワルターの《田園》と同じく「他には演奏しようがない」第9の故郷なんだなと再認識しました。まぁ、刷り込みの部分もあるでしょうけど。

高校生のうちにたらふく聞いておくべき演奏かもしれない。何の根拠もありませんが。

…今日のブログは今一つです(笑)。相手が悪いかな。では最後に悪口を。

僕が聞いているCDは、84年発売の輸入盤のリファレンス・シリーズというもの。音質はこれで十分だよ。

音質ばっか拘るが輩がいるけど、僕は「音質バカ」、ひいては「温室バカ」と呼んでいる。ちょっとの雑菌でヒステリーを起こす。雑誌を一番下から取るタイプだね。

彼らに取って「本当のバイロイト第9」の発見は朗報でしょうなぁ。

ハイドンのピアノ・ソナタを聞く第5回でしょうか(数えろ)。引き続きピアニストは名手ワルター・クリーン。

ハ短調です。同じ短調ですが、ホ短調の第34番ソナタとは随分趣が違います。より告白的と言うのか、心の葛藤を感じさせるというのか。モーツァルトのK310とK457との違いとも申せませう。

第1楽章はハイドンとは思えないくらい、重い諦めの念が漂います。これはもはや教え子ベートーヴェンの音楽と言った方が信用されそうです。

ハイドンは後年、ベートーヴェンの進歩的な考え方に、段々と影響を受けてきたのではないでしょうか?しかも、とって付けたようなものじゃなく、彼の考え方を理解し、音楽にいかしているような気もします。ベートーヴェンへの尊敬の念すら感じます。

逸していましたが、最後の第52番ソナタの楽章ごとの調関係は「変ホ長調→ホ長調→変ホ長調」なのです。しかも、メロディがドミナントで解決しようとしたり、これなんかもよい例です。

もう50歳も過ぎて、この「新しいものを取り込む」姿勢は人間としても非凡なものを感じます。頭の固い中年、若輩ものに無視を決め込んでる中年、見習ってください。

第2楽章はスケルツォ。スケルツォ!?ほらほら、やっぱりねぇ。軽やかなA主題に対し、B主題ではベートーヴェンばりの太い線のメロディと重厚な和音が音楽を切り開いて行きます。後に再現されるB'は、性格を変え、可憐さをたたえており、素敵です。

第3楽章はメヌエット。これで終わりとは、かなり異例ですな。普通はプレスト、とか快速で終わるのだけれど。ハイドンなりの返礼でしょうか?やっぱりあともう1楽章欲しくなるのは欲張りでしょうか?

でも「これが終楽章」ときくと、なんか悲しみのレクイエムのようにも聞こえてきます。イントロの和音付けなどは当時としては斬新だったのかも知れません。

夏の悲しさ、といったような寂しさを感じました。これも忘れがたいソナタになりそうです。

クリーンは相変わらずいい演奏だと思いますが、腕の振るい所がない感じがしました。クリーンはベートーヴェンは確か弾かないものね。

ずっとピアノ・ソナタばかり聴いているのもナニなんで、アルゲリッチが弾き振りをしたハイドンのピアノ協奏曲を。

この録音、有名ですよね。もとは小さい会社の吹き込みだったのに、EMIから出直って、RCAに移り、今はそのRCAからライセンスを受けたタワレコが発売していたような…。とにかく演奏内容だけで何度もよみがえるゾンビ盤ですね。

第1楽章。まずこのやや早めのテンポが実に最高です。これでこそハイドンは生きますね。そして、そのテンポを弛ませることなく(それが素晴らしいんですね)、アルゲリッチが虹色のピアノをまき散らし疾走してゆきます。

ソロも造形も全く破綻がありません。そして、若き日のアルゲリッチはなーんにもしていないように聞こえるんですね。これはもはやこの時代の彼女だけが持っていた「魔法」と称するしかないのではないでしょうか?音楽の女神が降臨しています。

第2楽章。ここも、やや早めのテンポでダレません。ウム、アルゲリッチが弾いておるな、という感じはやはりなく、なんて美しい音楽なんだろうなぁ、と言った極めて平凡な感想しか出てきません。

聞きものはカデンツァです。2分以上もある、かなり長いものなのですが、これが実に多彩で聞かせるのです。イントロはまさに天国の扉が開いた瞬間…という気がします。

これはハイドンがあらかじめ作っていたものでしょうか?僕はアルゲリッチが作ったんじゃないかなと信じたいのですが。いやはや、参ったね。

第3楽章は疾走するロンド。第1楽章と同じで、テンポ感がフレッシュで、次々と楽しい音が掘り起こされて行きます。主題も多彩を極めます。K488のフィナーレをより直線的にした感じというか。

ハイドン印の3連音がこんなに歌を持つなんてだれが考えたでしょうか?B3主題でフッと入りのテンポ遅めるとこなど、いつ聞いても新鮮な感動を覚えます。その後の新しいC主題の「待ってました!」といわんばかりの上昇短音階の軽やかさはいかばかりでしょう。

はぁ、言葉はなんて無力なんでしょうか。

今年の夏は、海に行ったり、夏の歌を作ったり、庭に打ち水をしつつキーボードでオケを作ったり、比較的に目標通りに過ごす事が出来たと思う。

それで気付いたけど、季節というのは、なんと早く過ぎ去ってしまうものなのか。自分が夏を満喫しようと、もがけばもがくほど、早く季節を食い尽くしてしまう。

「早く暑さが過ぎ去ればなぁ」なんて言うやつは、もはや人間として生きていない。こんな人間はただ浮き草のように生きているだけ。


よろしい!秋も冬も春も、すべて自分が食いつくしてやる。そしてすぐに来年の夏にしてやる。そして今年より早く準備して、骨まで夏を食べ尽くしてやる!

とにかく僕は無駄な時間は一分たりともない。今まで以上に走り続けます。ちょっとダサいか!

└|∵|┐♪┌|∵|┘

なんじゃこりゃ?


ハイドンのピアノ・ソナタを聞く、第四回。今日は昨日の続きで第35番でハ長調です。このソナタはハイドンのソナタの中では有名なものらしいです。

第1楽章。左手の執拗な3連符がいかにもハイドンらしい。たしかにこれが「ハイドンの味なり」と言われたらその通りかもしれない。

僕は豆腐という食べ物があまり好きじゃないけれど、食べられないわけではない。この楽章は僕にとってはそんな感じである。

もちろん豆腐がだいすきな人にとっては僕はかわいそうな人間に見えるだろうけど、それでよいと考えている。僕も早くこの味が分かるようになりたい。

でも、展開部で情熱的な展開を見せる。第34番の残り香を感じる。展開部の入りは、怒濤の和音の変化で調を変化させてゆく。ベートーヴェンの専売特許かと思っていたが、ハイドンから盗み学び取ったものなのかもしれない。再現部も低音部で再現するなど一工夫が利いている。

第2楽章は歌うアダージョ。このころはフォルテピアノは存在していたでしょうが、イントロはなんとなくハープシコードを思わせます。けれど主部に入ると、これはもうピアノの音楽だなぁと思います。クリーンのロマンチックなピアノが夢心地にさせてくれます。

第3楽章は、構成が凝っています。変則的なロンド形式でしょうか?「ABA-C-AA'」で、最後に「B」が省略されているのがミソです。

一番最後の再現に変奏が加えられており、モーツァルトのような短調への揺らぎが一瞬表れるのが面白いです。その後スッと音楽は終わります。なかなか瀟洒な終わり方です。ベートーヴェンのように、さぁいよいよコーダなり、とはなりません。

これを聞くと、ハイドンはぐだぐた長ったらしい説教とかはしなかったんじゃないかな〜なんて思ったりもします。少なくとも根に残る様な叱り方はしなかったのではないかと思います。まさに紳士です。

現代社会はストレス社会と言われますが、僕はそんなの信じません。どんだけ自分がカワイ〜んでしょーか?ハイドンに良い意味での処世術と、大人の余裕を学びなさいよ。

今の世の中、さして大したことない感情に溺れたいガキだらけ。音楽は別に世界は救わないんだよ。

それを信じたいのなら、まず自分のかかわる世界をきちんと見る事。すなわち、しっかり人と接する事。そのためには処世術。よってハイドン。

分かったか!強引だけど。

今日はまた海へ。「今日で最後かな」と思いました。

一っ海浴びようと、ブイまで行こうと思ったら、ライフセイバーの方が「今日は満潮だからなるべく浅い方で泳いでください」と言って来た。

わかりましたと、取りあえず昼食とビール。山本周五郎の「寝ぼけ署長」は行きの電車で読み終わったので、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」を読む。最初は「退屈」だったけど面白くなって来た。風が強いのでカバーを取ってしまう。

ビールが抜けて遠泳へ。しかしまたしてもライフセイバーに注意を。なるべく浅瀬で泳いでいたら、半分をすぎたところで足が付く。実に萎える。歩いて変えり、ビール&読書。「旅馴れて ニタリと笑う 俺の心の ドン・ジョバンニ」という句が気に入る。これは孫引きです。

ビールが抜け、最後の遠泳へ。またしてもライフセイバーに注意を受ける。今度はクラゲで揺すられた。ハイハイ分かりましたよと浅瀬へ向かう途中、昆布の様なものが腕に絡まったと思ったら、ビビッと松田聖子!!ヤられた!!

た、大したことじゃないさと思うものの、また来るんじゃないかの恐怖で泳げない。意気消沈、歩いて帰って着替えて、日没までのんびりした。

別れが惜しいので、海岸を端から端まで歩く。途中カメラ撮影を頼まれた。デジカメだから出来を確認して、何度か撮り直してあげた方が親切だったかなと思う。しかし、デジカメで頼まれるなんて初めてだったから、さ。半透明の満月が浮かんでいた。

帰り、なんか酒が残ってる様な頭痛を感じる。脈も早い。これ、クラゲの毒なんだと電車乗りながらはたと気付く。必死で体が解毒しているのだ。すまんのぉ。刺されたところははれているし、よくみるとポチポチ気持ち悪い斑点が出来ている。

クラゲの毒は、疲れた体を眠らせない効果もあるのだろうか。腹も空かない!でも、体は疲れてるはずなので必死に目をつむり、意識の浅いところでまどろんでいた。今日の泳ぎみたいだった。

℃ ℃ ℃ ℃ ℃

ハイドンのピアノソナタを聴くの第三弾です。今日は第34番ホ短調です。この曲はもっとポピュラリティを得てもよい曲だと思いました。

第1楽章は、ハイドンにしては珍しい、悲劇的な第1主題で始まります。数少ない音で作られており、緊張感あります。かなり鮮烈な印象を受けます。私はモーツァルトのK310のフィナーレを思い浮かべました。

ハイドンはベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を聴いて、その劇的な音楽に「ルードヴィヒ、音楽は化粧をしなくてはなりません」と評したそうな(だっけ?)。もちろんベートーヴェンは食い下がったそうですが。でもこの曲を聴くと、そんなエピソードはちょっと信じられません。お人好しハイドンがベートーヴェンの伝説作りにうまく利用されただけではないだろうか?

印象的な第1主題が、最後の最後に不気味に顔を出す。この辺りも新機軸。ベートーヴェンの第8交響曲はこれを参考にしたのかな?

第2楽章はホッとするアダージョ。細かい音型がたくさんでてくるけど、きちんと拍に収まる。ベートーヴェンやモーツァルトのように『┌ 7 ┐』とか『┌ 23 ┐』とか出てこない(笑)。

けれど左手の和音を打ち込むタイミングを工夫して、ハイドンなりに音楽に揺らぎを作っている。これはハイドンの譲れないところなのかもしれない。

アタッカ(これも新機軸か)で第3楽章。なんとなくラテン的な情熱的な楽章。いやはや、ハイドンのトルコ行進曲である。

この楽章のクリーンは実に最高ですよ。常にベースを拍通り刻む左手の小指がものを言っていて、音楽にぐんぐんノリとスピード感を与える。けれど型は全く乱れない。やっぱりクリーンは超一流のピアニストだ。バックハウスに瀟洒なセンスを加味した感じ。

他の楽章ももちろん素晴らしいですよ。今まで聴いたハイドン/クリーンのなかで、一番輝いている演奏と思いました。

今日もハイドンです。私のCDでもっとも番号の古い、第52番を聴いてみます。

第1楽章の主題は、かなり重厚な味があります。けれど主題が一見目立たなく、その展開が音楽の中心をなしていること、そして当然展開部の肥大に、ロマン派の夜明けを感じさせます。展開部にハイドンがよくやる、短調への暗転が出て来ます。

モーツァルトが感覚的に、ベートーヴェンが意志的に、そしてハイドンは結果的に、同じ扉をノックしたのは、なんだかすごく感動的ではないですか。

第2楽章は、静かな楽章です。晩年になると作風がシンプルになる作曲家が多いのはどうしてでしょうかね?クリーンの怜悧なタッチも相俟って、純白の花を思わせます。バックハウスのピアノでも聞いてみたいですね。

第3楽章もバッハ風の主題から、次第に熱を帯び、モーツァルトばりの縦横無尽さで右手が鍵盤を走る。左手の和音が1度、2度、3度と開いてゆくところが印象的でかっこいい。

クリーンは相変わらず快調。ちょっとクリーンにしては「ロマン派の夜明け」を意識し過ぎたかもしれない。ちょっと流れが滞るところもある。ディナーミクはあまり広くけれど。それがクリーンの品の良さですね。

やはり、ハイドンの魂百まで、カッチリした造形の中で無限に息づく音楽なのだと思う。

…なんて、冷静に分析調に書いているようだけれど、結構静かなる感銘を受けています。各楽章、全く違う味わいがあるし、特に快速のフィナーレは「待ってました!」と思う。なんか大切な音楽になりそうな予感です。

追記

「バックハウスの演奏で聞いてみたい」なんて書きましたが、なんとこのソナタ、バックハウスがデッカに吹き込んでいるではありませんか!思わず注文してしまいました。でもこれ10年前の限定盤(僕のバックハウス・コレクションはみんなこのシリーズだぉ〜)。手に入るのかなぁ…。

しかし、僕、すごいな。バックハウス向きだと思ったんですよ。本当だよ!クリーンはこの演奏を聞いているのかも。で、なかなか思い通りに演奏が出来なかったとしたら面白いね。

「旋律は歌であるが、歌は旋律ではない」

こんばんは。伊藤です。

今日、とある会社のマスタリング前の音源が手に入った。ちょっと貴重である。聞いてみると、確かに宅録のようなインディさは確かにあった。でも、これはこれで、気持ちいいけどなぁ。

でもびっくりしたのが、その演奏の精彩のなさ。できるだけ音の情報量は大きく正確に入れました、というような感じ。これがマスタリングを経ると見違える訳だから恐ろしい。

「あとで何とでもなるんだから、大きく正しい発音で歌うことだけ心掛ければ良いから」なんて言われるのかな。もはやこれは歌じゃないね。

そういうつもりで書いたわけではないんだけど、冒頭のワタクシの格言がぴったり当てはまる。

世界進出とかいうアーチストも沢山いるけど、まずは日本人の心を打たなくちゃ。そして「これが日本で一番人気です」と紹介されて海外に出て行かなくちゃ。

歌というのはすごく個人的なもので、言語が入るわけだから閉鎖的なものでもある。僕たちが言語の意味も分からず洋楽を聞いているのは、本当はとても恥ずかしい行為だと気付かなくてはならない。「歌は旋律ではない」のだ。西洋人の「個人的」の範疇にも入れずに蚊帳の外で騒いでいるだけ。

日本のポップスが海外に出て行けないのは、それだけ海外の人の自尊心が強いだけの話だよ。日本人が洋楽を聞いているのはその逆。

》 》 》 》 》


ハイドンのソナタ集が届きましたが、余りにたくさんあって困っています。ハイドンのピアノ・ソナタは何の為に書かれたのかなぁ?

しかし、このシンプルなソナタをいかに聞かせるか、すごく難しいそうですね。どんな綻びもゆるさなそうな、端正なソナタです。あまりに型ばっているので、まるでお見合いです。ややもすれば庭に出て一服したいような…もちろんそんな経験はないのですが(笑)。

第39番を聞いています。地味な曲ですが、素朴な少女みたいでかわいい。冬はちゃんちゃんこ着てね。

しかし、クリーンの素晴らしさはどうだろう。どんなに小さい音でも楽器が鳴り切らせ、許される範囲でテンポをゆらし、歌い抜ける。細かいパッセージに至ってはますます音が透明度を増してくる。本当に素晴らしいピアニストだと思う。

第2楽章冒頭で、長7の和音が鳴り、ドキリとした。さすがハイドン。心では鳴っていたんだね。しかし時代が許ささなかった。でも、その息吹を200年後の一青年が感じたよ。

第3楽章はフレーズごとにテンポやニュアンスを変え、モーツァルトもかくやと思わせる演奏になっている。楽譜にはない間をつくったり、ハイドンを分かりやすく解体してゆく。すごいねぇ、溜め息が出る。イントロの呼び込みはもっと元気良くても良い気がしたけれど。

長く待たされたぶん、長く楽しめそうなセットになりそうです。

28歳の記念すべき第1日目は海に行きました。寝坊して着いたのが三時頃でしたが。だからあまり日焼けできなかったです、ぐすん。

まず一っ海浴びて、作って来たおにぎりとビールで昼食。ビールが抜けるまで寝転んで読書。四時を回って(前回帰った時間だ)そろそろ行かねばと遠泳。

オレンジのブイまで行ったら、モーターボートのライフセイバーさんに「この先行くの?」と問われる。「ええ、でもボートとおるからあまりおすすめしないんでしょ?」と返したらそうだという返事。あきらめてUターン。

帰りにまた同じライフセイバーの女性に会う。「元気だね~お兄さん」「あはは、今日は波が荒いですね、泳ぎずらい、口が辛い!」「うーん、確かに小さな『うねり』が多いかもね~」

『うねり』こういうちょっとした言葉遣いがプロを感じさせるね。

また浜に上がって読書。日が落ちて来て、もう涼しいくらいだ。ビールが一本残っているが、もちろん飲まない。一編読み終わって、また一っ海浴びる。…これ終わったら帰ろうかな、とも思う。

五時を過ぎたのでライフセイバーの人はもういない。泳いでる人もまばら。でも、なんかまた泳ぎ出してしまった。オレンジのブイまで行って素直に帰って来る。これで前回と同じぐらいの距離を泳げたか。

着替えて読書。閉店後の海の家から無機質な音楽か流れて来た。客を締め出した後のバーベキューだ。でも生彩を欠いていたように思う。当初は楽しかっただろう。こんな日が永遠に続けばよいなんて思っただろう。そんなことは原理的に出来ないのだ。

僕が一人で晩夏の夕暮れを満喫しているそばで地獄の住人がいる。とても悲しい風景。

片瀬江ノ島駅に向かうが、その一つ前の駅で降りる人もたくさんいる。たぶん歩けるんだろうと、その駅から帰ってみようと国道沿いを歩く。

多分悪趣味な(ウカレテいるので今は気付かない)異国情緒の店や、リーズナブルなラブホテルが建ち並ぶ。

僕よりほんのちょっと歩みの遅いカップルを追い抜かす。チラッと見ると、彼女は黄色いTシャツを肩までまくり、こんがりと日焼けした小柄な子だった。昔こんなタイプの子に恋に落ちた気がするが、どうだったか?

彼氏の特徴はは忘れたが、彼女とグーな身長差だったと思う。

僕のサンダル足音に続いて二つのサンダルの足音がついて来る。

ライブも終わって(随分前だぞ!)、仕事の書き物も終わりが見えて来て(まだ半分)、明日は休みだし(時給だぞ!)、のーんびりしてます。これが幸せって奴ですかねぇ。

今日は涼しかったね。朝雨降ってたし。明日は(もち一人で)海に行こうかな〜と思っていて、もうバリバリに暑さぶり返しちゃっていいからね!

そうなるとのんびりしていられない。早く寝て明日に備えよう。ダイバスターも観ない。

二度目だから何が必要かもう分かるよぉ。シートでしょ(無かったんかい!)、おにぎりでしょ(岩手でカラスに持ってかれた。おばあちゃんの語り草になってる)、あともう一つ大事なものがあったよ。少年の心だ!(えっと、今日で28歳になりました)

仝 仝 仝 仝 仝


そう、今日誕生日です。お祝いメール(電話)は「親→本多君→つれあい」という順序でした。

毎年「あれっ今日だっけ」と言った感じで日が過ぎて行くのですが。今年はなんだか意識をしてしまいました。なんでだろうね、ははは。何気に28という数字にビビってんだろうね。

でも、もうろくとして28歳を迎えた訳じゃないよ。むしろ気力十分。作詞、作曲、編曲、絶好調だし、マラソンもしてるから体力も自信が付いた。ライブも初の300人を動員できたし(これはウソ)、「歌う」という奥深さにも気付けた。

しかし!世間はそうは見てくれない。どれだけのスキルが詰み上がっているのかなんて、他人には日焼けのようには見せられない。これがすごくジレンマだ。

だから、僕が今できる事は、他人がひょんなことで自分と言う鍋の蓋を開けてくれた時に、どんだけぇ具材が煮込まれているおいしいシチューを用意できているかだ。

もう鍋の輝きだけでは、他人は蓋を開けてくれない。年齢とはそういうものだ。

だから僕は生きる。たくさん音楽を聞く。正しい調理法でそれらを卸す。そして、もっともっとおいしいシチューを作る。

だから今からハヤシライス(レトルト)を食す。ではまた会おう。

今日偶然に、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ《春》を間近で聞かせてもらった。ちょっとねぇ、かなり感動してしまったよ。

今思うのは、もっと近くで聞けばよかったなぁ、ということ。練習(だったんです)の邪魔になるかなぁ、と思って。たぶん一歩近付くに連れて、等比数列級に感動が増したんじゃないかなと思ったり。

実は、まともに《春》って聞いた事なかった。で、聞きながら思っていたのは、ベートーヴェンっすごくアイデアマンだったんだなって事。一つのピアノと一つのヴァイオリンで、手を変え品を変え楽しませてくれる。

また、ピアノは訳あって電子ピアノだったんだけど、あぁ、やっぱり電子ピアノじゃあだめだなと思った。正確に言うと、このピアニストは電子ピアノでは歌えないな、と思った。

たぶんこのピアニストはピアノの弦をキチンと歌わせられる人なんだと思った。結局ピアノの巧拙はそれに尽きる。バックハウスなんて、鍵盤でヴィブラート、掛けるからね(笑)。

電子ピアノは僕はワリと肯定派だったけれど、今日この演奏を聞いて、逆説的に電子ピアノの限界を知った。《電子ピアノには弦がない》一言で言うならこれである。

また、今日は「取りあえず合わせた」レベルだったけれど、それが逆にすごく面白かった。言葉を介さない、まさに、対話であった。

今日はお互い譲り合う様な演奏だった。これがまさに空気のようにできる様になるには…たしかにアルゲリッチの行動は一理あるかもしれない(笑)。でも本当に《空気》になってしまったら耳を引きつけないかもしれない。

容易く空気にさせないのが、優れた作曲と言うものなのかもしれない。

↑このページのトップヘ