2007年07月

今日は休みでのんびりしました。でも二度昼寝をしたり、疲れてたんですかねぇ(でも気持ち良かった)。

一人暮らしをしていると、無意識に自分だけのルールが出来てゆくものです。でもなかなかそれに気付くのは容易ではないですけど(笑)。

でも一つだけ明文化(?)しているものがあって、それは「休日にはカップ麺を食べて良い」というものです。何故かはよく分かりません。今は亡きナンシー関さんも「袋入りインスタントはセーフ、カップ入りはNG」というルールを設けていたそうです。何となくその意味は分かりますけどね〜。

でも今日はカップ麺は無かったので(ナンジャ?)レトルト・カレーを食べました。レトルト・カレーだと、またちょっと違うかなってかんじなんですよね。なんだかワケワカランですが。

その後、ブラームスのドイツ・レクイエムをチェリビダッケの指揮で聴いたりしました。どっしり構えた良い演奏だったと感じました。タダ、どうこういえるほどこの曲は掌握していないので、それ以上は分かりません。

この曲のシューリヒト/フランス国立oの演奏が初出して、とある店で取り置いていただいているので、それを取りに行くまでは、もう少し理解度を上げておこうと思います。

2枚目は(2枚組なんです)(ちなみにそれに乗じるように「1枚組」なんて表現もありますが、おかしいと思いませんか?)ブラームスの交響曲第1番です。こちらは居眠りしました。ブラームスで惰眠すると気持いいと誰かが言っていましたが、まさに!しかも指揮は、のんびりチェリビダッケ。実に気持良かったデス。

しかし、僕はブラームスの第1番はあんまり愛着は持ってないです。なんか緻密すぎて息苦しいんですよね。かといってフルトヴェングラーみたいに緩急付けると、せっかくの緻密さがないがしろにされているようだし、じっくりやられると満腹してしまう。

あっ、だからと言って、その条件を満たすCDを探したりはしませんよ。教えていただかなくても結構です。そんなに暇じゃあないんです。チェリビダッケやワルターで十分満足です。

昨日の夜から第1番〜第4番を聞いてみた。それで思ったのが、優れた音楽ではあるけれど、そう何度も聞けないなと思った。

この曲を演奏しているオルフェウス・カルテットの気合いの入れ方は本当に素晴らしい。「俺たちの手でマルピエロを広めるんだ!」という気概に溢れている。そこにまずは打たれる。

以前「第5番」について書いた時に「楽理や楽器操作に傾いている」みたいな事を書いたけれど、やっぱりそんな印象を今回も抱いた。オケの時のように、指揮者ではなく、自ら音楽の構造を読みとき、その成果を直接演奏にぶつける。これは実に楽しくスリリングな行為だろう。マルピエロは弦楽器の操作にも卓越していたような気もする。

けれど、その快感が聞き手までにはなかなか降りてこないのだ。

例えば、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタや、弦楽四重奏曲には、聴衆の目を気にしていないようなものがある。でもそれは、運命交響曲を書いたベートーヴェンだからこそ「どうしちゃったのよ?」と関心を向かわせる事ができる。「マルピエロ、誰だよ?」ではまず聞き手が付かない。

音楽というのは、聴かれてなんぼだ。そうではない音楽なんて音楽なんて原則としてありえない。

日記も一緒。門外不出の日記なら焼き捨てればよい、しかしなぜ書き残すのか?それは誰かに読んで欲しいからに相違ない。

後は書き手の意識の問題だ。下品な話や人間的な弱みで客を釣ろうが、読まれてるだけ偉いのだ。

マルピエロの弦楽四重奏はこれからも大勢の目に触れることない、触れても目を引かない日記で終わる気がする。でも、その中でも第5番は「あの時代を生きた作家の日記」という短編集が編まれるとしたら、そっと忍び込ませてあげたい気がする。

R・シュトラウスの音楽を理解しようとしている。今日は晩年の作品「変容」。

まずはジンマン。相変わらずの渋い演奏。くすんだ(こんな言葉は無いけれど)亜鉛色の世紀末の空を思わせる。

この曲はカラヤン盤でも持っているので、その《解説書》を見ながら聞いてみる(超失礼!)。

すると、R・シュトラウスは第二次大戦で荒廃するドイツに心を砕きながら作曲したそうな。そしてそこにも書かれているように、作曲技法はこれより先が望めないほどの成熟度を誇っているのは、僕の耳にだってよく分かる。

一つのメロディは別のメロディの対旋律でもあり、それはまた別の和音の一つとして機能しいる…こんな途方もない積み重ねがこの曲を形作っているような気がする。もちろん、それは機能的和音の限界の挑戦であり、そういう意味では、メロディの美しさというのは望むべくも無い。すべては和音に奉仕しているからだ。

けれど、和音の移り変わりばかり聞かされるのはやはり退屈だ。フランクの交響曲の第一楽章の展開部にも似た退屈さである。だからこそR・シュトラウスは「23の管弦のための〜」という、室内楽を匂わせるような副題をつけて、「各パート主張せよ」と言いたかったのではないだろうか?。あまりにジンマンの演奏は平板すぎる気がする?

そこで、カラヤン盤を聞いてみた。驚いた。一節を強調したり、弱めたり、この曲を分かりやすいように解体してくれているではないか!「どうだ、こういう曲なんだぞ」といわんばかりの自信にあふれた演奏だ。

ハッと気付いた。カラヤンの古典派の交響曲は総じて面白くないのは、彼にとっては簡単すぎたのではないだろうか。こういう込み入った曲では腕が鳴るのだろうか。正直カラヤンを見直してしまった。

これを聞くと、R・シュトラウスが室内楽的な演奏を望んでいた事がよく分かる。そしてそれは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番の第1楽章にも似た崇高さを湛えているようにも感じた。

連日の疲れが溜まったのか、帰宅後バタン18してしまった。ハム入りオムライスを作る予定だったのに。

出勤前、この数週間に作り溜めたデモを聞いた。ジャッジは結局時間でしかない。やっぱりいい曲がたくさんあった。あとライブまで二週間ちょっとで、オケも含めて完成できるだろうか?女声様に調を歪めた曲もあった。「やっともどってきたね」といわれた気もした。

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中森明菜の「艶華」を聞く。演歌をカバーして千住明がプロデュースしたもので、比較的話題盤である。

成功しているものとバカバカしくて聞くに耐えないものと半々ぐらいだろうか?遠藤実さんの「みちづれ」と船村徹さんの「矢切の渡し」の編曲が印象的だった。

でも、結局「演歌というのは日本の心ではなくて写し出す鏡なんだな」という感を新にした。千住明のアレンジは「鏡」までにしか到達できていない気がする。日本の心は演歌以外にもあらゆる音楽に隠れているのを見落としてはいけない。

昨日は職場の飲み会でした(珍しい)。飲み放題なのに、ジョッキが無いとかフザケヤガッテ、土間土間には二度と行かないけど(人生こうして選択肢を狭めてゆき楽に生きてゆくのです)、会自体は楽しかったです。

一旦自宅に戻り、着替えてから行きました。そのときに聴いていたのが、ジンマンの指揮するR・シュトラウスの「四つの最後の歌」でした。ソプラノはメラニー・ディーナーと読むのでしょうか?

ジンマンといえばベートーヴェンのトンデモ演奏で一躍有名になりましたが、同じ指揮者とは思えないくらいゆったりして渋みの利いた演奏です。トーンハレoも底光りするがっちりしたサウンドで、本当にあの軽妙なベートーヴェンと同じオケなのだろうか?

各楽器は程よく解け合っていますが、でも決してモゴモゴした演奏ではありません。ジンマンは完全に「音楽に語らせる」ことに徹しているようです。

スコアの肥大化は解釈の余地を残したくない作曲家の悲願であった事をジンマンはよく分かっている。R・シュトラウスはその究極の作曲家だろう。この演奏を聞いてジンマンという指揮者に確信を持ったし、彼がベートーヴェンでみせた解釈も自ずと解明されたというものだ。

しかし、正直に申し上げて、ジンマンなんかどうでもいいのだ。僕はこのオケの音色がすごく気に入った!!このサウンドで、まだまだ未知のR・シュトラウスの管弦楽に接することができるなんて夢のようである。

「四つの最後の歌」の最後「夕映えにて」の景色は、荒涼としたくすみ空である。綺麗事など言わない。残された世界に不安を抱きつつ死んでゆくのだ。

やっぱり僕はボーカルを伴うのは荷が重すぎました。申し訳ないです。しばらくはまた一人でやろうと思います。

関係者の皆様、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。これからも頑張りますのでよろしくお願いします。

久しぶりに歯医者で東京まで。歯、欠けてたらしい(笑)。そういえば身に覚えが(爆)←使ってみた。かなり深いけど何とか神経は残したままやってみるとのこと。また二回くらい行かなくてはなりません。

その後、元職場を訪れ、CDショップに。最近リヒャルト・シュトラウスに興味があって、ジンマンの7枚組のを2.000円で買う。結構賛否両論の演奏らしいけれど、安いし、直感で悪かろうはずがないと思いました。

アルペン・シンフォニーを聞いたのですが、粘っこくない響きが心地よいでした。

正直申し上げると、僕はリヒャルト・シュトラウスがどうも分からなくて、フルトヴェングラーやカラヤンやベーム、ことごとく意味不明でした。でも、NHKでロストロポーヴィチがドン・ファンのソロパートを陶酔の面持ちで説明しているのを聞いたのと、ベームの抜粋の「カプリッチョ」でとてつもない美しさに度肝を抜かれてから気になる作曲家になりました。

ジンマンで極めてみます。ただ、ゆっくり聞けるのはいつになることやら…。

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とにかく!メロディは完成している曲のデモを8曲作った。12時間以上も作業して、できたのは12分弱なのだから、いやはやと言った感じだ。

これなら、何曲は自分の曲で埋めれば、8.15にライブできるかも。後はボーカルの飲み込みの早さ次第だ。

歯医者の予約を入れました。ちょうど定期診断の案内も来ていたので。

「この歯かな?」と目星をつけていたのですが、なんかもっと奥の方が痛い気がします。でもそれより奥は銀歯です。銀歯の中が虫歯ってあり得るんでしょうか?レントゲンも写らないだろうし。

でも、それでも探し当てるのがプロってものでしょう。期待してます、小林センセ(笑)。


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先方から、ミーティングの日にちが早められた。ちょっとのんびりしていられない。というか明後日だから。

候補曲は25曲くらいあるけど、10曲くらいはデモを渡せればと思う。

一番の目玉曲から取り掛かるも、編曲がキマらない。明け方、ミックスに原因がある事が判明。それを是正したら、また新たに問題が出て来る。

おいおい、デモ音源なんだからたいがいにしろよ、と言い聞かせるが、だめだ。一番最初に渡すデモなのだ。丁寧に作りたいし、それでまず実力が計られるから。いわばこれはプレゼンなのだ。

…うーん、でもあとは気楽に作ろう。

タイトルからして期待に胸膨らむ(笑)。常套句としての「イケナイ」だと思ったけど(「い・け・な・い・ルージュ・マジック」なんて曲がありましたね)、歌詞を読むと性的に「イケない」という割りと普通の意味だった。すごくストレートな歌謡で、ベタな語彙が不敵にちりばめられており、ベタに感動しちゃう(笑)。

これを聞くと、オレンジ・レンジは国民的バンドになる可能性を大いに秘めている気がして来る。解散して欲しくないバンドの一つだ。ちょっと不安だ。

そして2曲目の「イケテナイ太陽」、音楽でこんなに笑ってしまったのはクレージー以来である!いや、もはやこれは音楽でないのかもしれない。でも、この魅力はなんなんだろう。

最初、いきなり女声が歌に入ってきたから、「それまで女の子が一言も発してない事に注目」と書こうと思ったんだけど、よく聞くとはじめっから入っているみたいだ。

これだけ書いていても何がなんだかでしょう(笑)。ぜひレンタルでもいいので聞いてみてください。大爆笑の一時をお約束できます。

オレンジ・レンジって何がよいのかというと、ファン層の素直な雰囲気が好きなんだよね。良いリスナーが付いている気がします。

作曲に忙しくてまともに音楽を聞いている暇がない。でも、一応ケツメイシの新曲を聞いたので感想を。

さくらにも似た、リズムマシーンにサウンドを乗っけたスタイルの曲。ヴォーカルの声がよい。カップリングも含め、Gmの響きを用いておりお気に入りなのかも?もしかしたらこの3曲とも大元ネタはおんなじか?シングルではそれもアリだろう。

でも一番気に入ったのは歌詞。「夏は君がまたきれいになって帰って来る」という内容(そのまんまか)だけれど、その恋の争奪戦には年齢的にエントリー出来ない中年オヤジの視線というのか?でも、そういう気持ちって昔からあったよな…という感傷を呼び起こす。

ただ毎年その子をチェックしているというのはストーカ的で、あり得ないから「女の子という現象」全体を歌っているのだろう。も・し・く・は、この主人公は幽霊なのかもしれない(笑)。もしかして身内の叔父さんの幽霊!?モウワケワカラン。

久々にキュンときたよ。ありがとう、ケツメイシ。

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昨日は夕食後ちょっと昼寝をしたら、突然歯が痛くなった。症状は一進一退を繰り返す。

ピアノを弾いても、なかなか集中できない。ものすごく腹が立つ。けれど、3曲ほどスケッチできた。

1曲歌謡調のものがあるんだけど、ゆずやORANGE RANGEやサザンに至るまで、「ギャグだよ」の逃げ道を用意しているが、これを至極真面目にやったらどうなるんだろう。

たぶん僕がこれをやっても映えないに違いない。これをジャンプナンバーも歌うヴォーカルに歌い込ませるとどうなるのか?これは、新しいヴォーカルに寄せる期待のほんの一部にすぎない。

今までピアノ弾き語りでは用いられなかったリズムがたくさん使える。ゆずっこの16ノリの4拍子フォークなんかも作ってみた。まだまだやりたいことがたくさんある。

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