2007年06月

モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、一番傾聴させるものだと思う。構成はまさに天衣無縫、旋律は多彩を極める。たほとんど何も考えてないんじゃないかと思えるほどの筆の進め方だ。

けれどそこにはきちんとした「型」がある。それがモーツァルトの音楽を掛け替えのないものにしている重要な要素だと思う。生きた時代もよかったのだろう。ブラームスは「誰ももはやモーツァルトのように書けないだろう」という発言を残しているが、たぶんその事を言っているのだろう。

その「型」をきっちりと弾きこなすバックハウスは、その「天衣無縫」さをクッキリ浮き上がらせる。地面が下がって、山が出来るような弾き方だ。

このピアノの音の清冽さはどうだろう。誤解を恐れずいえば、この音は何も伝えない。つまり、音を磨き上げれば、もうその音だけで十分素晴らしいものだと分かる。「何かを伝える音」というのは、ただ単に透度が低いだけに過ぎない。

テンポも鮮烈だ。テンポは絶妙に揺らされるが、曲想ごとにわざわざ沈み込むようなことはしない。モーツァルトが考えただろう効果は、それで初めて活きてくるのだと思う。

第一楽章のカデンツァ手前のオケは、急に加速するバックハウス節である。指揮はベームだが、バックハウスの指示なのは明らかだ。さすがのベームもこのピアニストの前では立つ瀬がないようだ。

最近迷っている。でもだいぶ決まってきた。

僕、歌をやめます!!!続きを読む

昨日のウィンブルドンは白熱した(白熱!テニスにふさわしい表現)。日本人選手2人とも負けてしまったけれど、17歳(!)の森田あゆみ選手は100近くもランクが違うサンタンジェロにマジで勝ちそうだった。

森田選手のあの冷徹な目がすごい。惚れた。その目がマッチポイントでわずかに歪んだ。「あ、負けたな」と思ったら、あっさりゲームだった。

森田選手のボールの伸びは異常だと思った。とんでもない大器かもしれない。将来がすごく楽しみだ。

中村藍子VSマルチナ・ヒンギスはヒンギスの圧勝だった。解説で知ったのだが、ヒンギスは一度引退して、解説業(?)で生計を立てていたそう。けれど解説をしながら「私ならここには落とさない」とか思っていたらしい。それで復活してこの活躍。

一度は「見る側」に回った経験が、恐ろしい程活かされていた試合だったと思う。まさに中村選手は手のひらで遊ばれていた。

でも、中村選手はすごく可愛らしくて美しい。それを見ているだけで僕は幸せだった。

今日眼帯を外して行こうと思います。まだアザや赤目が痛々しいですが、インパクト的には…

「眼帯>赤目&アザ」

…になっていると。今、電車の中ですが、誰も変な目で見たりしませんね。

両目で見る車内は久し振りです。とてもすがすがしい。なんか仕事でもミスとかするわけがない気がしてきますね。強いて言えば、人生のミスチョイスも起きなさそうです。

深夜にウィンブルドンをやっています。別にテニス・ファンでも何でもないですが、なぜかよくみてしまいます。なんか心が落ち着くんですよね。0:00から始まるのがネックです。いつもその時間は走りに行ってしまうから。うーん、いどうしよう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

昨日はブラームスです。

このスタニスラフ・スクロヴァチェフスキさんの第4番は密かに愛聴盤です。彼の身体つきのようにとてもひき締まっていて厳しいです。

第4番はふくよかでたっぷりとした演奏もたくさんありますが、どうも違うかなぁ、と。ブラームスの晩年の作風は、なんだか悟りくさった感じで、わざと好好爺を演じてるようで、割と苦手なんですが、そういう延長でこの曲を捉えているのかもしれません。

でも、第4番はまだ戦っている気がするんですよね。そんな意味で、カルロス・クライバーの演奏は「戦うブラームス」を代表する名演だと思います。

フルトヴェングラーはどうかというと、お決まりのようにフォルムごと変形させていますが、それではブラームスにならない気がします。カッチリした造形の中で、ブラームスはいろいろ手を変え品を変え、聞き手に訴えている気がするからです。

言うなれば、一見さんお断りの料亭のような頑固さと厳しさが必要だと思います。フルトヴェングラーでは所詮は《大戸屋》どまりでしょう。

前述のクライバーはかなりたくさん聞いて満足×2してたけど、今は、さらに厳しいスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが一番好きですね。「戦う」というよりは、「いざ受け入れん」といった境地でしょうか。うまい言葉が見つかりません。

「諦め」とか「無我」というと、余計な情感が付いてしまいます。どんなも苦楽も、追わず、拒まず、悲しまず、喜ばず、そんな演奏です。思わずかっこいいな、と感じてしまうのです。

先述の先生とお話させていただいた。「ピアニストにはこういう話はしないよ」とのこと。それで僕にお鉢が回って来たのなら、ものすごく幸運なんだろう。

言語と音楽(僕が今熟考してるテーマだ)、拍について、表現や教育について、そしてたあいもないゴシップに至るまで、とてもとても貴重なお話でいっぱいだった。まだ聞き足りない。

そして、その一つにバックハウスの偉大さを再認させられたことがある。そして、僕は器楽曲をかなりいい加減に聞いていたのだなぁと悟った。

バックハウスの偉大さは話の端々で例に出されていたのだけれど、まとめると「作品に色付けしない」「音がきれい」「拍が乱れない」の三点だったと思う。

僕はバックハウスのモーツァルトで、興のおもむくままにテンポが変動するのはなぜかという前々からの疑問を呈してみた。その答えは「え、そうだっけ」だった(笑)。つまり聞いているところが違うんだ。

でも、バックハウスの説明出来ない素晴らしさをうまく言い当てていた気がした。それで、自宅に帰って「バックハウス・モーツァルト・リサイタル」を聞き直してみたら、以前とはかなり違った印象を受けた。

バックハウスと言えばベートーヴェン演奏が名高いけれど、モーツァルト演奏も、音楽の核だけを響かせたような、凛とした演奏。そして、それを実現しているのが、絶対に乱れない拍の感覚にあるのだと気がついた。

それはメトロノームの作り出す拍とは全く質の違う、身体的な《拍》なのだと思う。それを鍛えるということは、常に♪=80で狂いがない、ということではないだろう。ルールと分別と言い換えられるかもしれない。…これは僕が考えてみたことだ。そして《拍》はまずは母国語に絶対的に支配されている。

そして、音の美しさ。この音はどこかで聞いたことがあるなと思ったら、ワルター・クリーンの音と似ていると思った。クリーンも素晴らしいドイツ系のピアニストだとの話も伺えたので(本当に詳しい)、相通じるところがあるのかもしれない。今度聞き比べてみようと思う。

《拍》をキーワードにピアニストをふるいにかけてゆくと、様々なものが見えて来ることが分かった。

「作品に色付けしない」ピアニストは他にミケランジェリがいるらしい。それと、レオンスカヤがしっかり《拍》を持ったピアニストだという。両者ともほとんど聞いたことがないので、今度聞いてみようかと思う。

書いていてまだ昨日の興奮が残っているのに気がつく。またじっくりお話を伺えたらと思う。

冷蔵庫の霜取りをしました。冷・蔵・庫です。ウチの冷蔵庫は勝手に巨大な氷が生成されてしまうの困ったヤツです。

電源を切ってしばらく放置。頃合を見てバリッと外します。ついでに冷凍庫も霜を取り、拭き掃除をして、かなりピカピカに。嬉しくて、何度も中身を確認してしまい、せっかくの省エネ効果が希薄に。

§ § § § §

ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」を聞く。これはお能の「隅田川」を下敷にしたもの。

下敷にしたのはシナリオだけではなく、メロディも、いわゆる謡いのように、旋律が希薄。アリアなどはない。

楽器編成も極めて少なく、フルートやパーカッションはは明らかに和楽器を模倣している。そして、恐らく即興演奏が至る所にちりばめられている。たぶん、和楽的な即興の要素を取り入れたのだと思う。和楽に詳しくないので断言出来ないのがなんとも情けなくもあるのだが…。

シナリオは、気の触れた狂女が我が子を探しに船に乗るが、そこで子が人さらいにさらわれ、死を遂げたことを知る。墓前でお祈りをしていたら、我が子の霊が表れ、狂女は正気を取り戻す、という話。

元来の筋は、一晩明けると、そこはなにもない荒野だった、という結末であるという。これを「子の復活」という復活劇にすることにより、伝統的な教会寓話劇という枠組みに収めることが出来た。書いていてよく分かりません(笑)。

そうそう、言い忘れていましたが、舞台は西洋に置き換えられています。よって、お祈りにはチャントが用いられていて、それで「復活劇」という形を用いて、物語の解決をブリテンは計っているわけです。

「そこは荒野だった」という結末でも日本人からすると感慨深い気もしますが、西洋人に納得させるには、それしか方法がなかったのかも知れませんね。

けれど、この全体の雰囲気は、キリッとひき締まった、わびさびの世界です。かなり《能度》は高いです。前述したように、打楽器などは即興的な要素を用いている気がします。そういうところはブリテン、抜かりはないでしょう。コーラスなども「自由に繰り替えす」という表記もあり、和式の即興概念に大いに刺激を受けたのだと思います。

印象的なのが、船のシーンで、弦のグリッサンドが、本当にオールを漕いでいるように聞こえるところです。これは素晴らしい。シーンとした空間に、この音だけ不気味に響き、先行きの見えない未来を暗示します。

けれど、子の復活からちょっと自分は付いて行けませんでした。わびさびがいきなり大団円になり呆気にとられました。また、狂女の声が聞き分けずらかったです。みんな男声なので、集中してないと誰が誰だか分からなくなります。

この曲はもう卒業したと思っていたし、のだめ影響でかなり食傷気味。もともとこのCDを手に取ったのはハイドンを聞くためでした。まあ、おまけに聞いとくか、てな感じでした。

けれど驚いた!この第7番、すごい、シビれてしまった。というか、新鮮だった。

この交響曲は各楽章、印象的なリズムパターンに支配されるので有名だが、そうか、トスカニーニの弛まないテンポでこそ、この曲のテクスチャ(あぁ使いたくなかった言葉)を浮き彫りにできるのか。

第4楽章なんかは、フルトヴェングラーの突進するような演奏もあります。この定型リズムを詰めていくことによって躍進力を出しているのだけれど、残念ながらベートーヴェンの創造した建築物は、終演後に傾いてしまったよう。

トスカニーニは定型リズムは絶対に崩さず、揺らさない。音があるべきところに力強く立錐している。とても美しい姿だと思う。音自体が美しいのではなくて、音の配置が美しいのだ。こんなことを感じたのははじめてのことだ。もうこれいじょう何を付け加える必要があるのだろう?

第3楽章も素晴らしいけど、一番最後の最後、「えートリオ、また再現〜?と見せかけて、なんちゃって」というベートーヴェンのユーモアがあるが、ここはさすがにトスカニーニは素っ気ない(その素っ気なさはユーモアに達しているという見方もあるかもしれないが)。こういうところはフルトヴェングラーは上手いですょねぇ〜(ちょっとイヤミ)。

トスカニーニに言わせると「そんなことは書いとらん」となるかもしれない。ここは是非ベートーヴェンは音符に「(笑)」と書き込むべきでしたな。書いてあるんじゃ致し方ないですよね。そしたらトスカニーニの慣れない大芝居が見られる貴重盤になったかもしれない。

また、この盤に特徴的なのが、ニューヨーク・フィルハーモニックの歌なんですね。これはNBCsoには希薄な要素ですよね(トスカニーニの偏った評価はこのNBCsoの印象なのではないだろうか)。そして、トスカニーニもこの歌にとても満足しているような気がする。

この上機嫌のトスカニーニはすごく聞いていて清々しいです。トスカニーニに偏見を持っている方は、ニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏を是非と思います。

今眼帯をしているわけですが、しないですむ未来もあったのでしょうか?

怪我の次の日、とある事情で遅番になっていて、それでいささか酒量が過ぎたのかも知れません。でも、もし早番のままだったら?

また、昨日、元職場の女子が結婚するというのを直接聞きました。これも、本当は違う未来があったのか?

…そうです。ひぐらしのやり過ぎかも知れませんね。ふふ。あのゲーム(?)は名言が至る所にちりばめられていますが、僕がとても印象に残っていて、いつも折りあらば思い出す言葉があります。

「強い意志は運命になる」

僕を傷つけた方(女性なんですよ!)も、強い意志で傷つけようとしたわけではないはずです。単なる気紛れ、魅音のゲーム選びといっしょ。だから、そんなの些細な話です。

あのゲーム(?)は、誰かの強い意志によって、絶対に殺人が起きてしまう。つまり、すごくあきらめた意味で運命、ということになるのかもしれない。それがあのゲーム(?)の刹那的な美しさだと思う。

けれど、より強い意志で悪のシナリオに打ち勝てば、それもまた運命と呼ばれることになる。しかし当人は運命と呼ばれたくはないだろう。それは不屈の努力の故の未来だからだ。

僕がピアノを弾いて歌って、ライブをやっていない姿というのは、今となってはちょっと想像し難い。でも、当時を思い出すと、やっぱり未来はあやふやなものだった気がする。けれど僕は自分でこの今を掴み取った。

それは何の意志も持たない人には《運命》と見えるかもしれない。

昨日頭をしっかりロックされてヒザ蹴り。目が見事に腫れて内出血。これで接客はさすがにまずいので、眼帯を装備。

うーん、遠近感が掴めない。仕事の作業効率も6割減といった感じでしょうか。しっかり心配されたのが嬉しかったかな。

そして、音が少し高く聞こえる。電話の呼び出し音が初めて聞いた感じに響く。自分のドと鍵盤のドが少しずれてた。参ったね。でも、小林旭のように歌えるかも〜とちょっとだけ思う。

でも、和音は平気。単音が狂うんだな。これは面白いかも。

最近飲んでばかりなので、今日こそはランニングと走ったが、終わってから血行が良くなったせいか、患部が痛む。仕方ないので冷やしている。

そして、ピアノを弾いて、印象的なサビを書いた。仕上げたい曲がたくさんある。

さくらん見てきました。まっ     たく期待してなかったから、面白かったです。採点すると62点ぐらいですかね。

まず、着物がきれいです。あれだけ色があっても画面がひき締まっているのは蜷川実花のセンスなのかも知れません。

土屋アンナ、僕は偏見で嫌いだったけど、一生懸命頑張っていて好感に変わりました。でも、ぴか一の花魁に見えたかと言うと、僕は買わないと言うしかないでしょう。

筋は他愛もない印象。そしていささか錯綜している。これは原作によるものではないだろう。人情劇風なシーンも挿入されるが、かえってちぐはぐな印象に(この辺りが女性ならではの感覚と言えるかもしれない)。

音楽は椎名林檎だが、彼女の音楽以外に何が当てはめられただろうと思う。彼女の音楽のある種のうさんくささは、映画の品位を数段上に見せていた(引き立てた、ではない)。

でも、これは映画なのかな、とも思う。なんで、と問われると返答に窮するが。強いて言うなら、メロディだけが音楽じゃない、というのに似た感じだろうか。日本はメロディ・ノリの国だから気にする僕の方がおかしいのかもしれない。

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