2007年04月

年期のいるブルックナー、と言った感じでしょうか?この演奏の素晴らしさがやっと分かりました。

まず、ブルックナーは音量がなければお話にならないと思うのですが、スイートナーはハナマルを挙げられます。とにかく迫力満点。

表情は、ヴァント/ミュンヘンにかなり似ている気がします。ブルックナー演奏の伝統と言うものがキチンとあるんだな〜と思ったりします。

鬼門はやはりアダージョでしょうか?速度指定の「引き摺らず」をしっかり引き摺るのが伝統なのでしょうか?第3楽章から本丸なのはそのとおりだとは思うのですが、いささか構えすぎのような演奏が多い気がします。スイートナーもそれに捕らわれてしまっているようです。

けれど、ブルックナーは指揮者の「個性を楽しむ」なんて聞き方なんて出来ないよな、というのが本音。誰の演奏だって、最低条件さえ整えば楽しめてしまう(と私は考えている)。

「いや、そんな事ない」という人に「いや楽しいよ」と説明するのはかなり困難です。うどんの中にちょっとはいっていた柚の皮の風味を気付かなかった人に、それを説明出来ないのと同じ事。

冒頭の「年期」とはそういうことです。

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この前友人に「グリーグの《朝》が聞きたいからCD買って来て〜」と言われて、定評のあるヤルヴィのを買って行ったらクレームが付いた(笑)。

ちょっと激し過ぎるとの事。知らねーよだよね。すでに《朝》のイメージが出来てるなら、近いものを自分で探せばいいのに。

僕も『ペール・ギュント』はカラヤン/ウィーン盤しか持ってない。それが気に入れば交換してあげてもいいよと言った。しめしめ、ヤルヴィ盤には珍しいグリーグの曲が入っているのだ。

まあ、そんなわけでカラヤン盤を聞いてみた。《朝》はもう信じられないくらいの名旋律ですよね。これだけで我々グリーグは不滅です!全体的に暖かい音色の(悪く言えば「ぼってり」な)グリーグでウィーン・フィルらしいです。もしかしてグリーグ演奏の中でも珍盤かも!?

他は、楽しいんだけど、どういうシーンで使われたかが分かればもっと楽しいと思う。全曲盤で聞けばまた違った印象を抱けるかもしれない。

カラヤン盤で面白いのが、《山の上の魔王》の音楽で(この曲、ムソルグスキーの「禿山」に似てません?)、これほどにない悪乗りをしてみせる事。終演後、ウィーン・フィルと笑いの一つでも出たのではないだろうか?

でもシンバルだけヤケにクールで「馬鹿か」とか思っていたりして。

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入れ歯の微調整を終えて、歯医者さんが今日で終了です。感謝の気持ちを伝えてきました。

この感謝の気持ちを伝えるのも大変。大袈裟だとわざとらしいし。ここら辺は演奏といっしょ。自分のベストを尽くしてお礼を言いました。伝わったかな?

元職場に行って、ポップ立てをゲット。最後に会いたい人に会えてよかった。でも色んな思いがフツフツと…やっぱり会えない方がよかったか?

恒例のCD屋さん巡りをしたけれど全然楽しくない。尾を引いてます、かなり(笑)。フルトヴェングラーの戦後初振りの「運命」を試聴しました。結構冷静な演奏でびっくりしました。三日後の演奏よりこっちの方が良いような気もしました。

フルトヴェングラーの演奏は「聞こう」と思い立つのにかなり努力を強いられますね(まあ「テンポ速い、速い〜」「この盤の方が音が良い」って段階の人は別ですよ)。でも、聞き始めたら最後というか。《飽きるんだけど飽かない》感じがしますよね。是非読売日響を振って欲しい(しつこい)。

あぁ、でも気分重いな〜。フルトヴェングラーなんて試聴するんじゃなかった。

サウンド・ノベルの欠点は、音楽を聞きながら出来ないこと!

とうとう再終話、皆殺し編に入った。ちょっとさぁ、ここで明らかになる事実が多過ぎる。もうちょっとヒント欲しかったな。

でも、一番の問題は自分。ちょっとこのシナリオを信頼してないところがあった。「ほころびがあるんじゃないの?」って。

大間違いだった。このシナリオを信頼して本気で惨劇に挑んで欲しい。違和感は不出来なのではなく事実!事実は否定してはいけない!

健闘を祈る。

「親マジ大事って感じの歌が多過ぎるよね〜」とリリー・フランキーがナンシー関との対談集で言っていた。あまりに衝撃で、あまりにおかしくってその本を買った。昨日からずーっと「親マジ大事」というフレーズが頭を駆け回ってる。

あと個人的には「音楽って最高じゃね?」ってテーマもうんざりしている。わざわざ口外する必要性が希薄である。

なぜそういう歌が多いのだろう?多分それは完璧なテーマだからだから書きやすいのだろう。けれど完璧ほどツマらないものはない。

でも、完璧な作品というのは、実は完璧ではない。なぜなら「人気」という点で完璧ではないから。僕は何十という完璧な作品を作って来たわけだけれど(笑)、それだけではダメだと最近気付くことができた。

本当に完璧な作品とは、未完成な部分を《内包》していなくてはいけない。

けれど、外的要因で未完成な部分を作ることは可能だ。例えば稚拙ながら熱く歌い上げると言う事だ。ただし、これだと少しずつ歌唱が成熟し定型化に向かってしまう。やはり作品自体に求める方が楽なのだ。

けれど、あくまで《内包》であること。曲全体が稚拙ではいけない。完璧という殻で封じ込めてある事が大切なのだ。

リリー・フランキーからずいぶん離れてしまった。

大仰な音楽理論ではなくて、単なる人付きあいにかんする法則です(笑)。彼の著作「感動を作れますか」に書いてあったのだが、この「サンドイッチ理論」という言葉が最近よく浮かぶ。

どういう理論(だからそんな大袈裟なもんじゃないって)かと言うと「結局第一印象に戻ってゆく」という他愛もない話。「なんかこの人軽そうだなぁ」→「ん、意外とまじめな人なんだぁエッチしてあげてもいーかなー」→「浮気されたし。結局軽い男」という図式で、絶対にだれもが経験していることだと思う。ほら、ごまかすな!

依頼された作曲も編曲も、結局最初の構想に戻る事が多いという。この第一印象を保ったまま、いかに真空パックできるかが音楽で一番大事な事だと思う。

僕も歌詞をもらって第一印象でメロディが浮かばなければ、ほうり出してしまう。考えてしまうと、段々「第二印象」「第三印象」になってしまって、鮮度が落ちてしまう。大滝詠一さんのノベリティ・ソングもそうやって作られたものだと思う。

新書特有の「ガンバレ、日本人」的なノリはやっぱりあって、読んでいてなんども後ろめたさを感じたけれど(感じません?)、この読了後しばらくたってもこの「サンドイッチ理論」という言葉がポッと浮かぶという事は、やっぱり読んでよかったと思う。

昨日、BOOK・OFFで吉田秀和の「音楽」を買ってきました。寺島靖国さんが「文章が下手だ」と言っていた本だと思います。

一度も彼の本は読んだ事ありませんでしたが、最近のレコード芸術のエッセイがなかなか面白いと思ったからです。「昔聞いた時は、こんなテンポだったかなぁ」というようなニュアンスが面白い(笑)。

まだ全部読んでないのですが、彼の言い方ですごく気に障るところがあります。それは、プロの演奏家に対して「非常に上手」と書いているところです。今の彼はそういう言い方をするかどうか分かりませんが、失礼な話です。星野哲郎さんが美空ひばりに「上手ですね」と言ってしまって、しばらく落ち込んでいたエピソードを聞かせてやりたいです。

彼の評論は、文句を言われる要素を極力少なくする、というスタンスで書かれていると思います。そして厳然とした事実は踏み込んだ風に格調高く書く。主観が入り込めるところは警戒心を持ちつつ、お茶らけることも忘れない(上手である、とかね)。

だから、彼の作品評は面白くないし報われない。その時代の演奏家の演奏会を追体験したい時にはかなりのヒントを与えてくれる。売れっ子だったから、数はたくさんある。

もし彼の活躍した時代にインターネットがあっても、悪口は叩かれない文章だと思う。悪口を言う方が間違っているように仕向けているからだ。

決して「文章が下手」ではない。「巧み」な文章を書く人だ。

今日は休みですが朝から歯医者さん。新しい入れ歯を付けた。前回とは雲泥の差の付け心地!今まで付けっ放しにしてますが、前ので感じた疲れなどまるでありません。あぁ、やっぱり正直に言ってよかった。

突然、今回で治療は終わりとの旨を告げられてびっくり。おいおい、寂しいじゃないかよ。

小林旭さんが借金を完済したら、さーっとその筋の人がいなくなってしまって、なんとなく寂しかったというエピソードに似てますね(似てないか)。

というか、まだ虫歯残ってるし、と告げたら、一応また来週ということになった。入れ歯の調整も兼ねてね。

その後元職場に行ったり、CDショップへ行ったり、図書館へ行ったり、BOOK・OFFへ行ったりして、《かき揚げソバ》を作るために《かき揚げ》を買って帰宅するとまだ四時半。いやぁ、早起きするとこんなに時間が余るんだな〜。

《かき揚げソバ》を食べて、買ってきたCDや本を読んでのんびりしました。借りて来た「ニーナ・シモンとピアノ」に感動!まだこんなに素晴らしい音楽があるんだ…。

さて、そんな良い気分を害してくれちゃったのが、このチェリビダッケのブルックナー第3番です。チェリビダッケのCDで初めて失望したものになりました。残念。

第1楽章はわりといいんですが、第2楽章からずっこけます。「早く終わらないかな〜」なんて聞こえてきそうな、軽い表層的な指揮ぶりです(早く振れるんですね)。当然チェリビダッケは歌わない指揮者ですが、第8番、第9番のように、その《歌わなさ》をカバーするテンポが取れていない気がするのです。第3楽章はもっとひどい。間髪入れずに入ってしまうトリオと、その味気無さといったら。フィナーレは僕はどの盤も納得したためしがないですが、チェリビダッケは明らかに荘重ぶって指揮している気がします。コーダ直前に演出的な掛け声すら聞こえます。

それは裏を返せば、この曲への不信の表れなのだと思います。ブルックナー・チクルスだから一応振らなくてはならない、という感じがしてなりません。

まあ、嘘が付けない人なのでしょう。そういう意味でちょっと微笑ましくもありますが。

もう、ものはついでなので、カルロス・クライバーの未完成も聞き直しました。なかなか集中的に聴き比べるのも楽しいですね。

第一楽章は実に颯爽としています。オケはウィーン・フィルですが、とても素敵な音色を誇っています。第2主題はたっぷりテンポを落として歌いますが、なんとなくありがちで、新鮮味が足りないような気もします。

彼はコリオラン序曲でも同じような造形を作ってますよね。彼は意外と解釈はオーソドックスな気がします。ただレコーディングになると自分でも統率できないほどテンションが上がってしまうのがユニークで、彼ならではの音楽のような気がします。

展開部は緊張感が持続し、今までの三種の中で一番見事だと思います。再現部でシューベルトがちょっと変化させたメロディや編曲には全く神経が払われていません。やはりここは、ワルター、シューリヒトの老練さが光っています。

第2楽章はやはりテンポは早いですが、ワルターの歌もなければ、シューリヒトのよう細かいニュアンスもなく、物足りないです。さーっと流し、儚いような寂しいような雰囲気を出そうとしているのですが、細かい音型が多いので、あわただしい落ち着かない演奏に僕には聞こえます。フルトヴェングラーの第40番と一緒です。

クライバーの名演と呼ばれているものは、ウィーン・フィルの力によるところがかなりあると思います。この未完成の記録は、少しずつ忘れ去られて行くかも知れません。

ついでなので(?)、未完成の決定版と言われている、ワルター/ニューヨーク・フィル(頑張れ!)との演奏も聴いてみました。

あんまりホメホメだとなんかウサン臭いですが、素晴らしい演奏です。音楽の爪の先までワルターの解釈が浸透しているのが分かります。音は柔らかく、歌に満ちています。

でも、やはりこんなに構えて演奏して《報われる》曲なのか〜という疑問が頭がかすめます。

第2楽章の遅さは空前絶後。ワルターは造形がどうなろうが、まったく意識していないように見えます。遅いテンポを終始崩さず、思いのたけをぶちまけているようです。

それは彼のロマンチックな気質の表れというよりは、「来るべき恐怖への束の間の幸せ」というような印象を受けます。ワルターは未完成に、彼の人生を投影しているような気がしてしまいます。

「カラヤンとフルトヴェングラー」を読んだせいなのかも知れません。第2楽章の第2主題は、ゲシュタポから身を隠している、ワルターが残してきたの身内の小声での談笑という気がしてなりません。その細やかな幸せは、短調のフォルテッシモで引き裂かれます。悔恨の念が感じられます。

僕の耳にはワルターの未完成は楽しくもなんともない。決定版だなんてトンデモない!けれど、本当に特別な未完成だと思います。これになにも感じない人は、ぬるま湯に漬かり切っただらしないぶよぶよした人だと思います。

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