2007年04月

今日は寝坊して(というか二度寝)朝ご飯も昼ご飯のおにぎりも用意で来ませんでした。とほほ。「ひぐらし」の祟殺し編とかを読み返していたら結構な時間になっていました。

昨日はこの『イフ・アイム・ラッキー/ズート・シムズ』をふと掛けたら、ズートだけにずーっとリピートしてしまいました。

枯れた味わいとでもいうのでしょうか。若き日の元気いっぱいのズートではなく、昔を懐かしく振り返っているような、大人の演奏です。

「スインガー」と異名を取ったズートですが、この頃のズートはもはやスイングしません(笑)。昨日気付いた事ですが、スイングに必須なのは、立ち上がりのはっきりした音色です。コールマン・ホーキンスとベン・ウェブスターの違いを考えればよく分かると思います。昔のズートはそれはそれはコッテリした音色で、ブンブンとスイングさせていました。

この頃には、ズートは健康を害していたのでしょうか?吹奏に力がありません。けれど、それならそれなりの表現があるさ、とばかりに、あくまでも楽天的に晩年まで演奏を続けたのが実にズートらしいですね。決してミス・ノートは発していないし、もはや「柔よく〜」の域に達している気がしますね。彼の師であるレスター・ヤングの演奏スタイルに肉薄したと言えるのかも知れません。

ピアニストのジミー・ロウルズはかなりの曲者です。気を衒った(ように僕には思える)枯きった表現は、このアルバムをさらに特異なものにしています。最初は抵抗がありますが、でも彼以外のピアニストで誰がいると問われると、やはりいないんですよね。慣れると気持ちのいいピアノですよ。

年期のいるブルックナー、と言った感じでしょうか?この演奏の素晴らしさがやっと分かりました。

まず、ブルックナーは音量がなければお話にならないと思うのですが、スイートナーはハナマルを挙げられます。とにかく迫力満点。

表情は、ヴァント/ミュンヘンにかなり似ている気がします。ブルックナー演奏の伝統と言うものがキチンとあるんだな〜と思ったりします。

鬼門はやはりアダージョでしょうか?速度指定の「引き摺らず」をしっかり引き摺るのが伝統なのでしょうか?第3楽章から本丸なのはそのとおりだとは思うのですが、いささか構えすぎのような演奏が多い気がします。スイートナーもそれに捕らわれてしまっているようです。

けれど、ブルックナーは指揮者の「個性を楽しむ」なんて聞き方なんて出来ないよな、というのが本音。誰の演奏だって、最低条件さえ整えば楽しめてしまう(と私は考えている)。

「いや、そんな事ない」という人に「いや楽しいよ」と説明するのはかなり困難です。うどんの中にちょっとはいっていた柚の皮の風味を気付かなかった人に、それを説明出来ないのと同じ事。

冒頭の「年期」とはそういうことです。

りょうたが
今日、りょうたが
第2楽章の第2主題は、ゲシュタポから身を隠している、グリーグが残してきたの身内の小声での談笑という気がしてなりません。
とか思ってたらしいの。

*このエントリは、ブログペットの「豆三郎」が書きました。

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この前友人に「グリーグの《朝》が聞きたいからCD買って来て〜」と言われて、定評のあるヤルヴィのを買って行ったらクレームが付いた(笑)。

ちょっと激し過ぎるとの事。知らねーよだよね。すでに《朝》のイメージが出来てるなら、近いものを自分で探せばいいのに。

僕も『ペール・ギュント』はカラヤン/ウィーン盤しか持ってない。それが気に入れば交換してあげてもいいよと言った。しめしめ、ヤルヴィ盤には珍しいグリーグの曲が入っているのだ。

まあ、そんなわけでカラヤン盤を聞いてみた。《朝》はもう信じられないくらいの名旋律ですよね。これだけで我々グリーグは不滅です!全体的に暖かい音色の(悪く言えば「ぼってり」な)グリーグでウィーン・フィルらしいです。もしかしてグリーグ演奏の中でも珍盤かも!?

他は、楽しいんだけど、どういうシーンで使われたかが分かればもっと楽しいと思う。全曲盤で聞けばまた違った印象を抱けるかもしれない。

カラヤン盤で面白いのが、《山の上の魔王》の音楽で(この曲、ムソルグスキーの「禿山」に似てません?)、これほどにない悪乗りをしてみせる事。終演後、ウィーン・フィルと笑いの一つでも出たのではないだろうか?

でもシンバルだけヤケにクールで「馬鹿か」とか思っていたりして。

今日は大滝詠一さん三昧の一日だった。

やっぱり僕の師匠だと思う。誰も大滝さんには叶わないと思う。

僕は大滝さんの音源を大体全て聞き終わった時から『レッツ・オンド・アゲイン』が最高傑作だと思っていたけれど、今日やっぱりそうだと再認した。『ロング・バケーション』より僕は評価したいくらいだ。

なぜなら、ここには本当のプロデュース、つまり、大滝さんが求めてやまなかった、本当のナイアガラ構想が実現されていると思うから。

とある雑誌で「冷めた作品」と書いていたが、それは、ナイアガラ内情を知って故の偏見。

けれど、確かにこのプロデュースの冷徹さはただごとではない。モンスター(デビュー前のラッツ&スターですよ!)に《どユニゾン》でわざと下手くそに歌わせたりするのはホンの一例だ。

大きく見積もって500人位にしか聞かれなかった不遇のアルバム。それでも渾身の仕事をする。大滝さんの生き様だってしっかり僕の教科書になっているのだ。

昨日は更新が遅れてしまいました。疲れて気付いたら植木等さんと話していました。

…もちろん夢の中の話ですが。ははは。

バーみたいなところで打ち上げ的な雰囲気がありました。植木さんと同じカウンターで横に座っていました。初対面だったのですが、僕がいかに植木等さんが好きか示すために「学生節」の一番最後を(もちろん手拍子付き)で歌いました。

最初は小さい声で歌っていたのですが、段々抑えが利かなくなり、立ち上がって二三歩下がって(植木さんがうるさいだろうから)思いきり歌いました。人生でマジにならなくてはならない瞬間が三回あるなら、多分これがその一つだったと思っていました。

すると!なんと植木さんも一緒に声を張り上げて歌ってくださったのです。そればかりか、回りにいたハナ肇さんを含めたクレージーの面々、お客さんまで巻き込んだ大合唱になったのです。

幸せな気分で目が覚めて悲しくなりました。もうどう頑張っても巡り合えない光景だからです。僕の力が及ばないばかりに、生前に植木さんに会う事が出来ませんでした。

もしかしてこの夢が僕のもう一つの人生の記憶だとしたら、僕は進むべき道を歩めているのか、努力を怠っているのではないか?

たぶんこれは「ひぐらし」のやり過ぎ。

ミルト・ジャクソンは天才的なアーティストだと思う。でも天才っていつも同じ演奏しかしないから面白くない部分がある。

そんな考えがあるせいか、ミルト・ジャクソンのアルバムはそれほど持っていない。けれど、そのどれもが愛聴盤である。特に「ミルト・ジャクソン・カルテット」とこの「&カウント・ベイシー・ビッグバンド」は本国がしないなら、日本で国宝に認定した方がいい。

ミルトはベイシー・ナンバーを、もう快調そのものに飛ばしまくる。そこにベイシー楽団の強力なリフが加わるのだから鬼に金棒である。

特にこの「vol.2」はカルテット編成の「9:20 スペシャル」から始まったり、偶然スタジオに来ていたサラ・ヴォーンだかダイナ・ワシントンがブラス隊に合わせてスキャットで参加したり(ちょっと気持ち悪いけど)アルバムとして練られている。飽きない、本当に。もちろん「vol.1」も素晴らしいですが、今日はたまたま「vol.2」を聞いたので。

ベイシー楽団の分厚さをを期待する人には物足りないかもしれない。ブラス隊は物理的に左右にふり分けられて、空気感に乏しいという意見もあるかもしれない。

けれど、その代わりミルトのヴァイブが見通しがよく、ふわーっと気持ちが良いし、そしてなによりも、ベイシー楽団のリフが鮮明に録られており実に強力!ミルトのアドリブ中にも委細構わずリフを付ける!かっこいい!しかしごちゃつかず、やはりこれは録音エンジニアの先見の明だろう。

こういうアルバムが一時的にせよ、手に入らなくなる日本は本当に悲しい。「レフト・アローン」も今手に入らないからね(再発予定はあるみたいだけどね)。

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入れ歯の微調整を終えて、歯医者さんが今日で終了です。感謝の気持ちを伝えてきました。

この感謝の気持ちを伝えるのも大変。大袈裟だとわざとらしいし。ここら辺は演奏といっしょ。自分のベストを尽くしてお礼を言いました。伝わったかな?

元職場に行って、ポップ立てをゲット。最後に会いたい人に会えてよかった。でも色んな思いがフツフツと…やっぱり会えない方がよかったか?

恒例のCD屋さん巡りをしたけれど全然楽しくない。尾を引いてます、かなり(笑)。フルトヴェングラーの戦後初振りの「運命」を試聴しました。結構冷静な演奏でびっくりしました。三日後の演奏よりこっちの方が良いような気もしました。

フルトヴェングラーの演奏は「聞こう」と思い立つのにかなり努力を強いられますね(まあ「テンポ速い、速い〜」「この盤の方が音が良い」って段階の人は別ですよ)。でも、聞き始めたら最後というか。《飽きるんだけど飽かない》感じがしますよね。是非読売日響を振って欲しい(しつこい)。

あぁ、でも気分重いな〜。フルトヴェングラーなんて試聴するんじゃなかった。

先日の記事でスクロヴァチェフスキ氏/読売日響の演奏を思ったまま、結果的にはややディサポインティド風に書いたのですが、どうもそのせいか、今日は自分の気持ちもネガティブな方向へ導かれてしまいました。やれやれ。

ライブというものは原則的に良い物です。というか、これを否定したら、自分の首を絞める事にもなります。

けれど、ライブでブルックナーの感動に出会えるということは、かなり難しいことなのだという事を思い知りました。少なくとも、彼のCDの方が私は感動した。

私がおかしいのだろうか?私がレコードという毒に冒されているだけなのだろうか?「耳が肥えている」なんて生演奏とライブを同じものとして比較していいのだろうか?

分からない、本当に。


けれど、「メロディ・アット・ナイト」や「火の鳥」には引き込まれた。これに私は掛けてみたい。かならず、ブルックナーで感動してやる!と、おかしなベクトルに気持ちを持って行く事にする。

感動するのも楽じゃない。

…に二日行ってきました。ブルックナー第4番、ドヴォルザーク第7番、「火の鳥」組曲、そして自作の「メロディ・アット・ナイト」という曲目でした。

一番良かったのは自作曲の「メロディ・アット・ナイト」でした。読売日響の方々も、このめったに演奏しない曲に対する新鮮さがつたわってきました。曲を評するのに、他の曲を引き合いに出すのはよくないですが、あえて言います。ショスタコーヴィチに肉薄する内容を誇っていたと思います。

次は「火の鳥」です。現代作品に必要と思われるピッチの正確さに欠けていたように思いますが、やっぱり団員の曲に対する新鮮さが伝わってきました。

「新鮮」というのはとても大切で難しい事だと思いました。ブルックナーやドヴォルザークは退屈してしまいました。悲しいブルックナーの初体験となってしまいました。あぁ、彼らにとって手垢の付いた一曲にすぎないんだなと感じました。でもそれは彼らのせいだけではないでしょう。

しばらくは、いわゆる「クラシックなクラシック」は行くのをやめとこうと思いました。

今日、りょうたが
第2楽章の第2主題は、ゲシュタポから身を隠している、親が残してきたの身内の小声での談笑という気がしてなりません。
って言ってたよ。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「豆三郎」が書きました。

サウンド・ノベルの欠点は、音楽を聞きながら出来ないこと!

とうとう再終話、皆殺し編に入った。ちょっとさぁ、ここで明らかになる事実が多過ぎる。もうちょっとヒント欲しかったな。

でも、一番の問題は自分。ちょっとこのシナリオを信頼してないところがあった。「ほころびがあるんじゃないの?」って。

大間違いだった。このシナリオを信頼して本気で惨劇に挑んで欲しい。違和感は不出来なのではなく事実!事実は否定してはいけない!

健闘を祈る。

「親マジ大事って感じの歌が多過ぎるよね〜」とリリー・フランキーがナンシー関との対談集で言っていた。あまりに衝撃で、あまりにおかしくってその本を買った。昨日からずーっと「親マジ大事」というフレーズが頭を駆け回ってる。

あと個人的には「音楽って最高じゃね?」ってテーマもうんざりしている。わざわざ口外する必要性が希薄である。

なぜそういう歌が多いのだろう?多分それは完璧なテーマだからだから書きやすいのだろう。けれど完璧ほどツマらないものはない。

でも、完璧な作品というのは、実は完璧ではない。なぜなら「人気」という点で完璧ではないから。僕は何十という完璧な作品を作って来たわけだけれど(笑)、それだけではダメだと最近気付くことができた。

本当に完璧な作品とは、未完成な部分を《内包》していなくてはいけない。

けれど、外的要因で未完成な部分を作ることは可能だ。例えば稚拙ながら熱く歌い上げると言う事だ。ただし、これだと少しずつ歌唱が成熟し定型化に向かってしまう。やはり作品自体に求める方が楽なのだ。

けれど、あくまで《内包》であること。曲全体が稚拙ではいけない。完璧という殻で封じ込めてある事が大切なのだ。

リリー・フランキーからずいぶん離れてしまった。

大仰な音楽理論ではなくて、単なる人付きあいにかんする法則です(笑)。彼の著作「感動を作れますか」に書いてあったのだが、この「サンドイッチ理論」という言葉が最近よく浮かぶ。

どういう理論(だからそんな大袈裟なもんじゃないって)かと言うと「結局第一印象に戻ってゆく」という他愛もない話。「なんかこの人軽そうだなぁ」→「ん、意外とまじめな人なんだぁエッチしてあげてもいーかなー」→「浮気されたし。結局軽い男」という図式で、絶対にだれもが経験していることだと思う。ほら、ごまかすな!

依頼された作曲も編曲も、結局最初の構想に戻る事が多いという。この第一印象を保ったまま、いかに真空パックできるかが音楽で一番大事な事だと思う。

僕も歌詞をもらって第一印象でメロディが浮かばなければ、ほうり出してしまう。考えてしまうと、段々「第二印象」「第三印象」になってしまって、鮮度が落ちてしまう。大滝詠一さんのノベリティ・ソングもそうやって作られたものだと思う。

新書特有の「ガンバレ、日本人」的なノリはやっぱりあって、読んでいてなんども後ろめたさを感じたけれど(感じません?)、この読了後しばらくたってもこの「サンドイッチ理論」という言葉がポッと浮かぶという事は、やっぱり読んでよかったと思う。

昨日『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を聞いて、虚を突かれた。「針切り男」という歌を本当に失念していた。私の「まめな男」を書かせてくれたご恩を忘れていた。ごめんなさい、師匠。

でも「針切り男」と「まめな男」(字面は一緒でも、前者は「ハリキリ・ボーイ」と発音する)を比べてみると、全然内容が違う。あくまで「書くきっかけ」になっただけだ。

『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、大滝さんの作品の中では綿密に作り込まれていない印象があったが、昨日聞いて「トンでもない」と思った。

昨日職場の先輩とリズムに付いて話し合って、自分のリズムの認識の甘さを再認した。そんな時に見返るのが大滝詠一さんの音楽だ。そして『ゴー・ゴー・ナイアガラ』にリズムに関するたくさんの示唆に溢れていた。

特に面白いのが「こんな時」だ。いったいなんというリズムなのか?この曲はメロディも美しく、忘難い印象をのこす。そして大滝さんのなんて素直な歌詞!

「針切り男」は、昔はメロディの良さだけしか分からなかったが、裏打ちでベースが奏でられていることが分かった。音楽というのは、聞き手の能力の範囲でしか語りかけない。

あぁ、いつになったら僕は大滝さんの後ろ姿が見えるんだろう。

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