2007年02月

私の尊敬する三人です。この三人に共通する事はなんでしょうか?

それは、三人とも、よい聞き手、読み手であるという事です。作品の解釈も的確です。

そしてというか、だからというか、この三人には、ユーモアのセンスがあります。つまり、既成のものへの厳しい批判があります。

こういう芸術家に時代という「ふるい」は初めて遭遇しました。まさに新しいタイプの芸術家です。

都筑さんは、生前にその名を私は知りませんでした。彼の小説はすぐに私の心を捕らえました。今現在の彼の一般的な知名度は、風前の灯と言った感じでしょうか。

私も、この三人に少しでも近付けるようになりたいのです。正直なところ、音楽好き、読書好きでありたいだけなのです。

これは実はとても難しい事なのです。

今日も4周はしりました。ホントは3周にしようと思ったのですが、3周目で手袋を脱いだら、突然元気が出てきました。あれは何なんでしょうか?

漫画「美味しんぼ」のカレー対決で、「スプーンで食べるより、手で食べた方が美味しいわ」なんて信じがたいくだりがありましたが、手袋を取った瞬間、より鮮明に体調や夜の闇などが分かるようになった気がしました。

手というのは自分が思った以上の情報量をキャッチしているのかも知れません。付き合い始めの男女が手を繋ごうとするのも、「もっと、君を、知りたいんだーー!!」という気持ちの表れなのかも知れません。

さて、最近私はチェリビダッケ氏にご執心なのは、もしかしてランニングを始めたからかも知れません。あの方の作る音楽は、長距離マラソンをしているような、そんな気分になります。だから、聞く時も「よし、聞くぞ」と意気込まないと、ただ単に遅〜いだけの演奏に聞こえてしまうのかも知れません。

というか、弾いてるミュンヘン・フィルの方々は、まさにマラソンですよね。でも終楽章で息切れなどは起きないのが、本当に素晴らしいです。底力を随所に感じます。

ただ単に、自分の走るペースが遅いのを白状しただけだったりもします。

シンプルに書くと、昨日飲み会があった。大人数でワイワイするのは久しぶりで楽しかった。

ちょっと飛ばし過ぎて後半失速した。ランニングの距離が伸びれば酒も強くなるという無根拠な思い込みは打ち砕かれた。

しかし、一か月振りのビールは実に美味しかった。これのために昨日4周走ったのだ(そうだったの?)。

帰り一緒になったヴァイオリニストさんとパールマンの話をする。私がパールマンの名前を知ったのは、オスカー・ピーターソンと組んだCDだった。そのCDを聞きながら湯船につかる。

パールマンのアドリブは上品で、ジャズ的なスリルには乏しい。アドリブというより変奏と呼ぶべきものなのかもしれない。けれど、実に美しくテーマを奏でる。「わが心のジョージア」で、ややピッチを低めにとり、郷愁をかきたてるように歌い出すところなんか、ジャズ・ミュージシャンには思いも付かない発想だろうと思う。

そして、ピーターソンは相変わらず元気にジャズ的にピアノを打ち込んでゆく。その後に、またゆったりとパールマンがテーマを奏でる。

これなら、クラシック・ファンも気に入ると思う。ジャズとクラシックの演奏姿勢の違いも良く分かる。これは私が高校生の時の新譜だったのだが、意外な名盤じゃないかな。

このCDをその方に貸すことになったのだが、気に入って頂けるだろうか?

昨日は4周走ってしまいました。いきなり倍の数ですが、走れてしまいました。止まるのが勿体ないという感覚でしょうか?気持ち良かったです。

壊滅寸前のCD店で、安い2枚組の輸入盤を買いました(店員の笑顔が眩しい)。ロッシーニのスターバト・マーテルがはいってます。実はこの曲を聞くのは初めてです。というより、ロッシーニ単独のCDを買うのが初めてです。

なんというか、うん、まだ何にも言えませんね。しかし、明快だなぁと。1枚目は、ピアノと少数の楽器が奏でるミサ曲で、かなりユニークです。正しいタイトルが分からないので、職場で調べてみることにします。

実はこのCD、客注でちょっと欲しいな〜と思っていたのです。偶然再会してしまいました。これは買ってしまいますよね。関係ない話ですが、昔別れた彼女とハウステンボス辺りで遭遇する妄想をたまにします。なんでしょうか、この結論は。

ユニバーサル(UCCU-9340)

映画「ショー・ボート」の音楽に魅了され、ジェローム・カーンの曲作りについて研究しようと思っていたが、適当なCDがなかった。

意外に、ジェローム・カーンのソング・ブックは数が出ていない。エラ・フィッツジェラルドのは有名だが、やや高価(ケチ)。後年のヘレン・メリルのがあって、借りて聞いた事があるが、出来は……(察してください)。変化球としてキリ・テ・カナワさんのもの出ているが、どうなんでしょうか?

けれど、ほぼ理想に近いCDが発売された。マーガレット・ホワイティングのズバリ「シングス・ジェローム・カーン・ソング・ブック」。以前、ビヴァリー・ケニーの「ライク・イエスタデイ」を紹介しましたが、そのシリーズです。実は輸入盤で紙ジャケで出ていたのですが、これもやや高価かなと渋っていたのです(ケチ)。

全24曲、ジェローム・カーンの曲が続くとシンドイと思われ、それを覚悟で私も買ったのですが、全然ダレないのです。これは嬉しい誤算でした。私は素晴らしいアルバムには魔法が掛かっていると思いますが、このアルバムにがまさにそれです。

解説を読むと、このプロジェクトがかなり大掛かりだった事が分かります。第一、2枚組で24曲のオリジナル・アルバムというのは、今でさえちょっとしたものでしょう。原文ライナーによると「雰囲気と感覚のメリハリをつけるために、モザイクの断片のように何度も曲順を改められた」そうです。

アレンジは昔風の弦の入った「伴奏に徹する型」あり、ジャズ・バンド編成あり、ギター(バーニー・ケッセルです)あり、ちょっとですが、バド・シャンクがソロを取ったりします。一分チョイで終わる曲もあり、緩急自在でダレません。全24曲、ブルックナーのシンフォニーみたいです。もしくはショパンの24の前奏曲でしょうか?

マーガレットさんの歌唱は、適度に抑制が利いていて、ジェローム・カーンのメロディの美しさを十二分に伝えています。不思議な転調にも見事に対応してます。「アイム・オールド・ファッションド」は晩年のチェット・ベイカーの声でしか聞いたことがなかったので、初めてメロディが分かりました〜。

しかし、いいアルバムです。残念なのは解説と歌詞カードが別紙でかさばること。これはイライラします。歌詞カードはトレーを外して中に埋め込んでしまいましたよ。

日本語解説の斉木克巳さんのライナーはかなり読み応えがあり、原文ライナーの翻訳も付き、国内盤はオススメなんですが、こういう「これで完結している」ような見事な作品だと、どうしても紙ジャケで欲しくなってしまいます。あぁ、どうしよう。

全然研究なんかしてないのでした。

結果はネットでしめじとか、大きい方程式などを散歩すればよかった?
りょうたが、美味しかったです答えなど作りました
ジャガとか肉ジャガを昼寝したかったのはネットでジャガとか作りました
豆三郎たちが、大きい神器とか肉ジャガとか買うの忘れましたいみたい
今日りょうたたちが、ネットで
いいじゃがいもとか肉ジャガ、買うの忘れました
と、豆三郎が思ってるの。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「豆三郎」が書きました。

二日間酒を口にしてません。

1日目は、夜雨が降っていて、ランニングが出来なく、それならと酒を抜きました。しかし、その日は始めから抜こうと思っていたのです。

2日目はなんか体が疲れており、なにもせず眠ってしまいました。白菜やお豆腐なども出しっ放しでした。

今日はすごくいい天気ですね。酒を抜いたせいもあるのかな?

ここ二三日これを聞いている。

ミサ曲第2番は、あんまりピンとこなかったんだけど(指揮者はバレンボイム)、第3番は面白くて何度も聞いている。この曲には、ブルックナーの交響曲のヒントがたくさんちりばめられている気がしてならない。

ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」にせよ、ミサ曲やレクイエムというのは、楽章内での変転が激しい事が多い。ブルックナーのこの曲の「クレド」なんて、10回もテンポ指定が変わる。でも、ミサ曲なので、違和感はない。

そこではたと気付いたのだ。ブルックナーは交響曲をミサ曲の延長で書いていたのではないだろうか?「ブルックナー休止」というのは、ただ単にミサ曲における速度指定の変更を応用しただけではないだろうか。

このミサ曲第3番、交響曲で聞いたことのあるようなメロディ、伴奏がいたるところに出てくる。そこには、ミサ曲なので当然言葉が付けられている。すると、その意味は、そのまま交響曲の解釈として用いても良いのではないだろうか?

ブルックナーほど、今の時代に再浮上して来た作曲家はいないだろう。なぜ今まで理解されなかったのか?楽譜で厳密に研究したわけではないのだが(ゆくゆくはするつもりだが)、ソナタ形式論的にあまりに無理やり理解しようとしていたからではないだろうか?

そこには常に二つの結論しかなかった。「ブルックナーは形式が破綻している」「いや実は緻密に作ってあるんだ」。私がブルックナーを聞き始めた時には、後者の説が巻き返しを計ろうとしていた時期だったが、はっきりいって釈然としなかった。結局どちらも私には間違いだと信じるようになったのは、ここまで読んでいただければ明らかだろう。

ソナタ形式からみるブルックナーの交響曲は破綻している。一応ここではそう仮定する。その破綻性からフルトヴェングラーのようなマーラー的解釈のブルックナーが出て来たのだが、それは彼の気質を差し引いても、むしろ当然だったと思う。フルトヴェングラーがいなくとも誰かがやっていただろう。

もちろん、その解釈がピタリとはまらなかったために、マーラーより一段低い作曲家、というような誤解が長年続いたのだ。


よ り 有 効 に 破綻しているマーラー

   ∨

あまり有効に破綻していないブルックナー

 
…という図式だ。「マーラー/ブルックナー辞典」なんて屈辱的な書籍があるくらいだから、驚くに値しない。

ブルックナーのインスピレーションはとどまるところを知らなかった。しかし、大編成のミサ曲を書くと言う《常識外れ》なことは出来なかったのだろう。彼にとってミサ曲とは小さな教会で歌うものだったに違いない。

だから、彼は交響曲を書いたのだ。そして、それをコンサートに乗せるには、ソナタ形式を用いる必要があったのだ。それは実に素朴な発想だったに違いない。

もちろん、それによって、歪んだ解釈の歴史をくぐり抜けたりもしたが、それによって、今まで生き残ることも出来たのだ。「皮肉にも」という表現を何重にもひねっても、この歴史の混乱は解きほぐせまい。



…そんな風に、今私は考えているが、まだまだブルックナーの音楽の魅力は解き明かされていないのである。

チェリビダッケのこのCDは、やはりミュンヘン・フィルの響きが素晴らしいです。ぜひ生で聞いてみたいオーケストラです。そんなこと思ったのはミュンヘン・フィルが初めてです。

チェリビダッケの個性は毛ほど感じられません。変な指揮者ですねぇ。ちなみに、このEMIのライブ・チクルス、冒頭と最後には、必ず拍手が入るのですが、この曲だけにはありません。何故でしょうか?

昨日の日記で大事なこと書くの忘れてた。

荒川さんはスケートをするために生まれて来たと思いますか、の問いに、そうは思わないと答えてたんだよね。それにシビれて駄文をしたためたのに、結論を抜かしてしまったよ。酔ってたからね〜。

しかし、率直な意見だよな。本当にその通りだと思う。私も「作曲するために生まれてきたのですか?」なんて聞かれたら答えようもないもの。でも「天職だと思います」なんて言った方が見栄えはいいよね。でも、はっきり言って傲慢ですよ。

いや、私も分かるんだよ、そんな傲慢な態度で言ってるわけではないことぐらい。でも、それを口にしちゃう事って、神様への冒涜だと感じてしまう。

私は自分の作品は天からの授かりものだと思ってるからさ。だから、自分の手腕じゃないんだよね。インスピレーションというのは常に空中を漂っていて、それを有効にキャッチするアンテナを磨いているだけだと思うのです。そのアンテナの感度を褒めてくれるのなら、それは素直に喜びますが。

かといって、「天からメロディが降って来た」なんていう人間も相当あてにはなりませんが。余りそういう事は口にしないのが一番の得策みたいです。

随分前の話だから時効だよね。前の職場で「荒川静香の演技大して良くなかったよね」と言っている女性がいた。自分は涙が出るほど感動したトリノの金メダルだったから、びっくりしてしまった。

その女性は美人でスタイルも良い方で、なにかモデルか何かしてたんじゃないかと(あくまで)想像していたが、それで冷静に美を認めることができなくなってしまったのなら悲しすぎる。そういう仕事の人にとって、他への美の称賛は、自己のアイデンティティーの喪失にもろにつながるからだ。気の毒といえば気の毒だ。

私ももちろんそういった傾向はある。Jポップと呼ばれるものは、原則的に批判的だし、ピアノをフィーチャーしたようなものには概ね点が辛くなる。けれど、平等に聞くことは決して忘れていないつもりだ。それは、死ぬまでスキルを上げて行けるジャンルと、物理的にピークがあるジャンルの違いなのかもしれない。

話がとっても逸れてしまったが、荒川さんのテレビ番組があって、やはり感動を新たにした。あの夜、天使が舞い降りていたとしか思えない。

彼女はトリノ前に、プロ転向を考えていたそうだ。しかし、その前の大会で優勝してしまったため周りが「次はトリノですね」的な雰囲気になってしまい、それに従いトリノに向けて準備をしたのだそうだ。

私は、人間が自分の意思を持つのは、実はそう簡単じゃないと思う。トリノを決意した頃、荒川さんは自分の意思をはっきり持っていたのだと思う。

そうなると、自分の実力が冷静に見きたのではないだろうか。その時初めて、自分の実力をミスなく出すだけで、十分にメダルに届くだけの実力があると、恐ろしいほど冷徹に判断できたんじゃないかと思う。

事実、トリノでの演技は「鬼神もたじろぐ」というような演技ではなかった。7〜8割の力で勝負していたんだと思う。しかし、その演技の背後に隠された大きなものに、少なくとも私は感動した。そこに辿り着くまでの荒川さんの苦悩がひしひし伝わって来た。しかし、それはきちんと「演技」という言葉できちんと語られていた。

私もそういう音楽を志しているつもりなのだが、なかなかうまく行かないのは周知の事実である。

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