2007年01月

昨日買ったハイドンのCD(95番、99番、102番)を聞いているんだけど、どの曲にも仕掛けが含まれているみたいだ。

それは、ちょっとクラシックに慣れてくると「おや?」と比較的簡単に気付けるみたいだ。王様レベルで気付ける仕掛けを入れておいて、知的優越感を味あわせていたんじゃないか?


王様:「ほぉ、ハイドンめ、またやりおったわい」

お妃:「どこのあたりでございますの。女のあたくしには音楽はむずかしゅうございます」

王様:「女子供に簡単に分かってしまったら、ハイドンが失業してしまうわ、ブオッホッホ」

一同:「ハッハッハ」


…こんな感じ?


第95番はハ短調なのに、終楽章は高らかにハ長調で終わる。ベートーヴェンの「運命交響曲」と一緒だ(どっちが先に作曲されたか調べてないが、かなり興味深い)。

第102番は、ナント、ティンパニのトレモロ(クレッシェンド)から入る。「驚愕」より驚愕だ。第99番はちょっと思い出せないけど何かあった気がする(今出先なんです)。

ついでに言うと「V字」の終楽章も、ベートーヴェン「第七番」の裏打ちのエイトビート的リズムを先取りしてる。巨匠たちがこの曲だけは愛したのは、このリズムが堪らなかったんじゃなかったでしょうか?

そういう意味でポップスなども愛したバーンスタインは本当に自分に正直な演奏家・作曲家だと思います。

こういう第一印象は段々薄れて行くので、メモを残しておいた方がいいですね。

そう!ユニークな第一印象は忘れても、それでも決して飽きさせない力を持つハイドンの交響曲。今年はたくさん聞いてみようと思います。

5
今日は休日で久々に都心をぶらついて、CDショップの●●と△△に行きました。こんなに動いた休日は久しぶりです。

まずは●●のジャズ・フロアへ。ここにはずーっと恋い焦がれている店員様がいまして、ぶっちゃけそれ目当てで行きました。いましたよ。ちょっとウェーブが掛かってたセミロングが、ボブっぽくなってました。前のより親しみやすい感じになりました。

なんか電話で話しています。察するところによると、前のライブの打ち上げで頭を殴っただの殴られただの、歯ぐきをお見せになられてガハハと笑っておられました(仕事中…)。百年の恋も冷めました。

恐らくとは思ってましたが、この方はやはりジャズなんか好きじゃないんだなと確信しました。途中でエラい感じの人が書類を持ってこられたときも、「あーやりゃいんでしょ」みたいな事も言っていましたし。こんな品揃えで上司にふん反り返ってるんですね。落ちたものです。

次はクラシック売り場へ。チェリビダッケのEMIのCDが安く売ってます。とある人から「クナッパーツブシュのじゃなくて、ミュンヘン・フィルの『第八』なんだよ」と言われたのを思い出して、ちょっと動悸が走りました。あーっ。迷いました!でも、取りあえず保留。

続いて△△へ。さすがの品揃えです。チェリビダッケの影響で、ブルックナーの棚へ。00番をまだ聞いたことがないので、スクロヴァチェフスキーのOEHMS盤をゲット。これ、廉価レーベル、ARTE NOVAの再発なんですってね。あー全集買っておけばよかったなぁ。OEHMS盤だと一万以上しますが、ARTE NOVAだと五千円以下だったと思います。やはり思い立ったら迷わず買うべきですね。

それと、突然ハイドンのシンフォニーが聞きたくなりました。知らない曲がいいですね。ヨッフム指揮で、95番、99番、102番が組み合わされたものがありましたので、ゲット。なんなんでしょうか、この下位打線的な組み合わせは。なんでしょうか、このビンゴの穴が一つも開かない感は。これはこれで、強烈な存在感がありますね。こういうCD好きですね。

最後に再びブルックナーの棚へ行き、チェリビダッケのCDの値段をチェック。高い!●●へ戻ることを決意したのでした。

その後、図書館へ行き、都筑道夫の半自伝的なエッセーと、CDを借りました。「ラインの黄金」も借りましたよ!今年はリングに挑戦してみます。クナッパーツブシュとマゼールで予習してるから大丈夫でしょう、多分、きっと…。オペラ(すいません、ワーグナーは楽劇ですね)って小説を書いてるときに、聞きたくなるんです。視覚的な刺激が、聴覚だけで得られるからかも知れません。

そんな楽しい休日でした。

今日は忙しいので短めです。

給食費を滞納する親と言うのが話題ですね。「だって給食だって義務教育でしょ」というのは是非今年の流行語になって欲しい気がします。傑作です。傑作ですが、給食の成り立ちと義務教育とは別のところに萌芽があるので間違いです。

私の職場の近くのスーパーで、買い物カートが放置されている場面をよく見ます。こういう事をする人達は精神構造的に給食費滞納親と多分似ている気がします。

かたや「義務教育でしょ」、かたや「サービス業でしょ」。自由席だからといって自由に排便しだす人が出て来るのも時間の問題でしょう。

こういう人は己の無知を武器にしています。これに勝つには、やはり毅然とした態度しかないと思います。

クレームをよこす人なんてしょせん一見さんです。そんな情報をありかたがってる我々から変わらなくてはなりません。頑固なほどに自分の常識を振りかざすぐらいでちょうどいいと思います。

今、前に書いた小説を書き直しています。なんとジャンルしていいか分からない小説ですが、まあ、ミステリーではないでしょうか。

前の稿は、読みやすいけど無駄が多いと気付いていまして、削る作業はずっとやっていたのですが、埒が明かないので、全部書き直してます。

どこで読んだか忘れてしまいましたが、村上春樹さんも、一度仕上げた後に、始めからまた書き直すのだそうです。どうしてそのような行程を編み出したのかは不明ですが、奇しくも私も同じことをやってます。けれど、私の場合は、前の稿の言い回しなどをカンニングしてますが。でもガラッと雰囲気が変わるものですね。

とにかく「読者をしかるべき方向に導く」ということだけを念頭においています。それと、別にこれ一作以外にもたくさん書かなくちゃいけないから、別に深く思い入れてはいけないとも感じています。それは作曲していてよく分かったことです。とにかく、思い入れのあるものはハズれるものですよ。一発屋に二発目がないのもそんな事が原因じゃないかなと思ったりする事もあります。

とにかく、口笛をふくように、さらっと仕上げます。

主観を抜きにしても、50〜60年代のジャズのジャケットは格好いいと思うのです。ブルーノートはあまり好かないですが、ジャケットは好きです。なぜなんでしょうか?

それは多分、ジャズは本質的に「やる方」の音楽だからではないでしょうか?だから、別の角度からリスナーにアプローチしないと、聞き手が付かなかったのではないかと私個人では思います。

そして「やる方」には黒人が多かったことも挙げられるのではないでしょうか。エルビス・プレスリーの誕生前夜に「黒人のように歌える白人歌手がいればヒットするんだが」と言った人がいるそうですが、つまり、黒人のレコードをためらいなく買わせるスタイリッシュなジャケットデザインがとても重要だった気がするのです。

あの素敵なジャケットは、社会背景を抜きにしては生まれなかったのかも知れません。そう考えると、今のジャケット・デザインは、よくも悪くも今のジャズの立場を表しているのかも知れません。


* * * * * 


【関係ないけど面白かった話】

NHKでやっているマル徳マガジン(?)でボイストレーニングをやっていた。

最後のレッスン。

先生:「では、最後に、子供の頃に戻ったつもりで好きな言葉を大声で発声しましょう」

生徒:「はい」

先生:「やっほーーー!」

生徒:「やったぁぁー」

先生:「がってんだ!」




…あり得ない。大笑いでした。

自分に限り無く素直になると、個性的な言葉は自ずと出て来る。

* * * * *

自分が小学生だった時、または小学生の作文などを見ていると、自分の気持ちに近い日本語を必死に探しているのが分かる。私は「うーーん、なんて言葉って貧弱なんだ!」とよく教室で頭を抱えていたものだ(この歳になるとよく昔のことを思い出しません?)。

それは音楽も同じだと思う。「天才」と呼ばれる人に若い人が多いのは、従来のイディオムに捕らわれていないからだと思う。そして、そういう人のクリエイティビティはなぜか短命である。青春は短いという一般論を無条件で肯定する立場を取らせていただくと、その短さとそれは関係しているような気もする。

私たち凡人(ごめん、君は違うかもね)は、段階を経て、言葉を、音符を、限り無く透明に近付けて行く。この作業を、私は芸術と呼びたい。つまり、それは誰にでもできることだ。けれどとても難しいことだ。

そして、言葉が、音符が、限り無く透明になった時明らかになるのは、人間は一人一人違う生き物なのだ、という事実だけだと思う。生まれながらに持たされた個性を、ただ提示したにすぎないのだから。

(isbn:4480090134)

面白い!是非勧めたい。今年一番印象に残った本の最有力候補になりました(気が早いよ)。

江戸時代末期に書かれた、町民のための算法書「算法少女」の謎めいた誕生に霊感を得て書かれた、遠藤寛子さんの創作です。刊行年はなんと1973年。版元は児童書の岩崎書店。

この本も数奇な運命を辿って(解説に詳述されているので省略)、このたび復刊され、ちくま学芸文庫に入ったというわけです(「入った」という「名著保証」みたいな表現も、品切れだらけでもはや有り難みも少ないですが)。

読了後、なんでこんなに面白い本が今まで埋もれていたのかなと考えましたが、おそらくこんな悲しい理由だと思いました。つまり、「なによ、数学の苦手なタア坊のために買ったのに、なんの役に立たないじゃない、ふん」という教育ママが大勢いたのではないでしょうか。岩崎書店というネームバリューも裏目に出たのでしょう。

はっきり言います。これはミステリーや推理小説の類いの本です。「ちょっとキョーヨーだって付けたいしぃ〜」なんて不純な動機で読んではいけません、というか読めません。これは一つの優れた文芸書なのです。あきの最後の殿様にとった行動なんて、古畑もびっくりなほど、知的で機転が効いています。読んでいてゾクゾクしました。

そして、付加的な魅力として、たゆやかな江戸情緒の描写があげられます。本当に懐かしいような、日本人の故郷を覗いているような、幸せな時間が過ごせます。

あと、とても気に入ったセリフがありましたのでご紹介します。

「さわいでもどうにもならん。じっとしとき」

江戸時代の人に言われると妙に説得力があるから不思議です。

私がジャズを聞き始めた頃は幻の歌手、ビヴァリーのCDなんか一枚も出てやいなかった。しかし、ふと新譜案内をみると、当たり前のように再発されているではありませんか!(寺島靖国さんらのご尽力の賜物ですね、アリガトウ!)これは買わなくては。

まずはこれをゲット。

■ビヴァリー・ケニー・シングス・フォー・ジョニー・スミス(TOCJ-6852)

これは非常な名唱集だ。写真を見ても分かるように、美人顔だけど、じつは、テコでも動かない表現欲の強さを兼ね備えた女性だということが分かる。決して美声ではないけど、タイトなバンド演奏によって、彼女の表現が崩れることなく、ピタッと決まっているのが気持ちいい。何もしていないようで、じつは豊かな音楽に仕上がっている。まぁ、本人にとっては不満かもしれないけど。


なかなか良かったのでもう一枚買う。


■ライク・イエスタディ(UCCU-9328)

ジャケットの感じから、こちらの方が古い録音と思われるだろうが、これは彼女の最後の録音です。ん、最後だって?そうです、彼女は28歳で火災事故で命を落としているのです。

この録音を聞いた時ブったまげてしまった。えぇ、これがあのビヴァリーなのか?耳を疑いました。

一言で言うと、媚びに媚びている歌唱。スタン・ゲッツ、ビリー・ホリディに影響を受け、心酔していたビヴァリーはここにはいません。50年の歳月を飛び越えて、私は彼女に怒りを覚えました。

しかし、私はこの二枚のCDを何度もとっかえひっかえ聞いています。そして髪の色も体型も変わらざるを得なかった彼女の痛みが伝わってくるのです。

前者のCDの高田敬三さんのライナーには在りし日のビヴァリーの愛らしい逸話が載っています。それがますます、一人の女性の死の重みを実感させます。

そして、このライナーにはとても重要な事実が、胸に秘めておきたい大切な事実が、載っています。それを読んだだけだと、単なるサッド・ストーリーでしょうが、「ライク・イエスタディ」を聞いた後に読み返したら、胸に突き刺さるほどの悲しみを覚えました。

もし私が彼女と同時代に生きていたら…そんなことを考えると、恋にも似た胸のうずきを覚えるのです。

…メーカーがね、冷や汗で。

あるある大事典(辞典?)の「納豆ダイエット捏造」が問題になっていますが、あれは実際実験してないのに検査値をでっち上げたところに問題があるわけです。

報道ステーションで古館さん(すごい頑張ってんじゃん!)が、テレビというのはまず結論ありきで、その結論へ効果的に誘導してしまうことが多々ある、というニュアンスのことを言っていた。よくわかる。

「カーリング好きですか?」
「子供の頃からやっているので分かりませんね」
「でも、いつもカーリングの事考えているでしょ?それってやっぱり…」
「いつもはアイスクリームのこと考えてます」
「好きか嫌いかって言ったら?」
『好きです』

…記事には『好きです』の文字が踊ることになる。そういうことだ。

というわけで「納豆はダイエット効果がある」というのは、結構ホンマモンの噂で、そのウラが取れなかっただけなのだ。それも実験して取れなかったわけではなく、時間的制約だから、むしろ罪が軽いのではないだろうか。

メディアも「虚偽のダイエット効果を捏造した」とは言っていない。国民に興味があるのは、あるあるの行く末じゃなく、その効果のほどなのだろう。

だからみなさま、是非自分が被験者となり、ダイエット効果のほどを試してみてはいかがでしょうか?あるあるにはたくさん夢を与えてもらったでしょ?せめてもの恩返しに、今すぐスーパーへGO!在庫は心配いりません。

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