アルバムを作ってます。

今日、機材チェックを含めて、録音してみました。

うーん。

私は、ノイマンのまぁまぁのコンデンサーを使ってますが、これとつくづく相性が悪いなと思ってました。天瀬さんの声とかはすごくきれいに録るんですけど、僕の声は全然ダメ。すっかすかになる。

ボイトレも始めたし、ちょっとはましになったかなと思ったんですが、本当にダメ、全然ダメ。特にミドル。

僕の声は、そんなに変なのか??なぜ、一般にいいものを使ってもよく録れないのだ?

いちばん、自分の声の弱いところを、抜けてしまうところを、すごく拾ってくる。たたき割りたくなるくらい腹が立つ。録音された音も、ガッツがない。低音がないわけじゃないんだけど。

で、最近、デモでよく使ってるダイナミックマイクのSM57で取り直してみると、ふくよかで、つややかで、いい感じなんだよね。

ここで、導かれる仮説はいくつもあって。

.灰鵐妊鵐汽泪ぅは、そもそも宅禄に向いてない(近づいて歌うので、空気が録れてない、もう少離れて歌っても大丈夫な環境が必要なのではないか)【反論→じゃあ天瀬さんはなんだ?】
▲灰鵐妊鵐汽泪ぅというものと、自分の声の相性が悪い【反論→コンデンサは2つしか試してない】
このコンデンサマイクと、たまたま相性が悪い【反論→データ不足】
ぅ瀬ぅ淵潺奪マイクでレコーディングするんだったら、本当にSM57がベストなのか【反論→データ不足】
ト声がまだまだなのだ【反論→別のマイクを試してからではないとわからない】

よって、コンデンサマイクをダイナミックマイクを一本ずつ新調してみて、どれが正しいか検証してゆかなくてはならない。そして自分の声に合ったマイクが見つかればナオのこと良い。

金がかかるものである。

(今、それぞれに聞きなおしてみると、ノイマンの方も、悪くないような気がしてきた…。クリアで、ピアノからふわっと浮いてくる。SM57は、なじんでくる感じ。どっちがいい、というものではないのかもな)

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ソロアルバムを1枚作っている。

前作「RI:Cycle」は本多君と僕の作詞が半々くらいだったけれど、今回は本多君との作品だけを集めている。

本当は2枚同時に発売しようと思ったけれど、さすがにきつかった。だから今年は1枚。

棚卸したら、アルバム3枚分くらいあるみたい・・・パソコンの中だけかと思ったら、昨日、紙媒体で何曲も見つけて、あーーーーこれもあったなぁ!って、アルバム4枚分になった。

あまりに作品がたくさんなので、曲順を決めるところから始めた。

「あなたの歌」

あなたのうた
幼き夏の日
さよならサンデリアーナ
傘を並べて
night drive
願い

愛って
飲む女
わらっていよう
見たこともない世界へ
電車2
最後の日

よーく歌った曲もあれば、作って、一度も歌ってないものもある。まぁ聞き手には関係ない話ですが。それをうまくまぶして、アルバムの凹凸を作ってゆく。歌ったものばかり集めてしまうと、この後続く、2枚目、3枚目がかなり「華」がなくなるような気がしまして。まぁ聞き手には関係ない話でしょうが。

で、今回、メトロノームを使うことをやめました。

前回の「RI:Cycle」はもちろん、メトロノームを使って、テンポが一定なんですが、それが常識なんですが、本当に、ミスを連発しましてね。そして、弾き終わっても、なんか全然釈然としない。辛い作業です。

で、本当に、何の天啓かわかりませんが、あ、メトロノームやめちゃおうと。本当に弾き語りしてるみたいな感じで、ピアノを自由にテンポを揺らして





家計簿を今年の3月から家計簿をつけていたが。

7月の旅行、8月に肺炎にかかってから、それどころではなく、どーでもよくなってしまった。

まず、なんで家計簿をつけていたのか。

家計簿をつけて何をしたかったのか。

それは、お金を貯めたいからだったと思う。

そのためには、お金を何に使ったかというのを明確にしておく必要があると思ったのだ。

分かったこと。

家計簿をつけるだけではお金を貯めることはできないということ。

お金を貯めるには、節約すること、がいちばん大事だ。

で、節約するためには、僕の場合は「物欲に負けないこと」ということがいちばん。

その次は「外食をしないこと」ということがにばん。

それが、家計簿をつけてよくわかったことだ。

物欲に負けない、という部分に関しては、少し改善されてきたように思う。

で、外食をしないことも、だんだんと改善されてきたと思う。

結局、自分の精神との戦いだ。

そして、使うときは、ぱーーーっと豪快に使っちゃう。これも大事かな(笑)。

とにかく、家計簿はおしまいにしよう。

めんどくさい。


肺炎になりました。

風邪だと思って、医者に風邪薬をもらっても、全然良くならず、去年の記録を超えて、39.5度という高熱をたたき出して、これでは死んでしまうと、救急外来に駆け込みました。

結果は、マイコプラズマ肺炎。若い人しかかからないらしいから、まぁ、おれ若いんだなと。

でも、同時に、血液検査で、肝臓がおかしいことを指摘される。去年にも指摘され、でも、風邪を引いたからかなぁとずーっと放置していたものだ。

それも熱に影響しているかもしれないよ、と言われ、腹部エコーも、まだぼーっとする状態で受けに行く。

10日くらいで、まぁ、なんとか普通に暮らせるようになった。

で、まだ、早いかなと思ったけれど、ボイトレのレッスンの日だったので、行ってみた。「リハビリ的な感じでお願いします」と先生に言った。

基礎練習をしながら、「あぁ声出てないな」と実感する。しかし先生は違う感想を持ったようで、「今日はとても安定しているよ」と。「とてもよく響いてる」「それくらいの息の量でいいんだよ」と。

そっか、そうなのかぁ。と思う。

どうしても、自分は「でかいことはいいことだ」の価値観がぬぐえず、もっとでかく、もっと大きく、と無意識に考えてしまうところがある。

この、無意識というのは、本当に曲者で、例えば、ピアノを弾きながら歌っていたり、緊張していたり、作業タスクが上がってくると、普段意識できることも意識できなくなってしまう。弾き語りの難しいところだ。

結局、レッスンというのは、技術を上げることももちろんだが、無意識の変革というところも大きいのではないかと思う次第だ。

とにもかくにも、「そっか、これくらいでいいんだ」ということが分かっただけでも、肺炎になって良かったと言えることなのかもしれない。

後は肝臓。何ともなかったら、快気祝いで、倒れるくらい呑もう(笑)。それまで我慢。


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今回で最終回です!ありがとうございました。

 

お便り待ってます。
ryotaito@hotmail.com

僕は大瀧詠一師匠から卒業した。

あたりまえながら、学ぶべきところはきっとまだまだたくさんある。

しかし、在籍期間は限られているもの。

いつかは否応なく追い出されてしまうのだ。

追い出されてゆくべきものなのだ。



尾崎豊は「この支配からの卒業」と歌った。

それは、在籍期間からの脱却であって、

実は、卒業は2回あるのでる。

人は2度死ぬように。

もう1つの卒業は、潜在的な支配からの卒業なのである。

かんたんに言えば、俗世からの卒業なのではないか?

俗世的なモラルから自由になるとき、

本当の卒業なのではないか。

もちろん、ルールを守らない、という意味ではない。

そこから自由になるということだ。

それを、僕の筆力で説明する頃は、少し難しいのだが。頑張ってみると。

例えば、ごみの分別をするときに、

「これはプラスチックだから、リサイクルごみ」

と考えるのではなく、

「プラスチックは再生可能だから、リサイクルごみなんだな」

と逆にあたりまえに考える。

同じようで、全然違う。

再生できるものは、どんなものなのか?

そして、再生できるのに、燃えるゴミにルールによって分別されてしまっている資源がある、

しかし、そのルールに疑問を抱きながら、平和そうな顔をしている、

それが、精神的な自由なのだ。

これが芸術だともっと簡単だ。

だから、芸術家は芸術を求める。



自由になることはむつかしい。

心がリミッターを掛けるからだ。

しかし、自由は酸素のように実はどこにでもある。

そのリミッターを少しずつ、しかもモラル以上に、

かんたん(といってもむつかしいが)に外してゆけるのが

芸術であり、

自由になる過程を、きっと鑑賞者は感じながら、

同調してゆけるから、芸術は不滅なのだろう。



まだまだ、がんじがらめの僕だが、

少しずつ、外してゆこう。そして、それはきっと受け入れられるはず。

本当は、みんながそれを求めている。

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七夕だった。

去年の七夕は何をしていたんだろう。

そんなことを思っては少しむねがくるしくなる。

そんな気持ちを人生の先輩とすこし共有することができてよかった。

しばらく、イベントっぽい日が来ると過去を振り返ってしまうことが続くのかもしれない。

そして、それを何サイクルか繰り返せば、少しずつ忘れてゆくのかもしれない。

無意識は無慈悲に、リアルな夢を見させたりしてくるけど。

目が覚めて、それはそれでしあわせじゃん、とか、夢に返したりするけど、

そのうち、そのうち、夢にも見なくなって、

少しずつ、少しずつ、忘れてゆければいいのかもしれない。

それとは別に、

僕は僕で、新しい方向へ、歩んでいけるように、

着々と準備していて、

少しずつ、少しずつ、自分を取り戻してゆけるように、

まずは、ペットボトルをちゃんと分別しようと、

燃えるゴミに入れてもいいんだけど、

やっぱり後ろめたくて、地球を汚している気がして、

ペットボトル用のゴミ袋をもう一つかけられるように、フックを一つ。

後ろめたいと思うことはもうやめよう。

ヒミツはいい。

後ろめたいヒミツと、

後ろめたくないヒミツがある。

後ろめたいヒミツは自分を傷つける。

後ろめたくないヒミツは未来に繋ぐためのもの。

自分をいじめるのはもうやめよう。

自傷に敏感になってゆこう。

自分にいいことをたくさんしてゆこう。

セルフネグレクト、学生に最近教わった言葉だ。

セルフネグレクトをやめよう、やめてください。

自分を愛せて、その次に、他人が愛せる。

そして、他人からの愛が受け入れられるようになる。

自分を愛してください。


今年の七夕のようになるとは、去年からはまったく想像していなくて。

来年の七夕はどうなっているだろう。

なんかやっているんじゃないのかな?

それがライブだったらいいな。

SH3J0455
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お便りお待ちしています。テーマは「おばけ」。
ryotaito@hotmail.com

行ってきました。

シモーネ・ヤングの指揮は期待を裏切らずに、素晴らしかったです。
読響を聞いたなかでは一番感動したかな。

嵐の場面は、いろんな意味で、涙が出そうに。
迫力が怖いほどだったし、一つのクライマックスをそこに持ってきたんだろう。
一斉に音楽を奏でているという奇跡みたいなものなども含めて、
少し泣けてきた。

でも、やっぱり読響の魅力のなさが随所に残念な感じを与えていました。

一番顕著だったのが、日没〜週末にかけてのゆっくりのところ。

ところどころで、シモーネ・ヤングの意図がしっかり浸透している演奏だったけれど、
ここはまったくで、シモーネ・ヤングも盲点だったのではないだろうか。

普通に、歌えばいいだけの部分だろうに、まったく歌がない。
これは、要は、オケに個性がない証拠、
もしくは旋律の普通の解釈というもの
(ふつうはここで対旋律の中声部がふくらんでくるとか、クレッシェンド気味になる、とか)
が、結局、日本人にはできない、難しいということ。

シモーネ・ヤングとしては「言わなくてもできて当たり前」のレベルと思って
スルーしていたことが、この読響というのはできないんですよ〜
というのがあからさまになった場面だったと思う。

そういうのは、ところどころ、ソロでもあからさまになっていた、
シュトラウスの旋律の解釈が、わからないので、どっちにも振り切れずに、中庸に吹いて、
聞いている方にはますますわからない、という状態。
奏者も迷うんじゃ、聞き手はもっと迷う。

これも、シモーネ・ヤングからすれば「知ってて当たり前」な部分。
ね、日本のオケを指揮するのって、こんなに大変なんですよ。
どっかの偉い人が「未曾有」って漢字が読めないようなことが、
日本人がクラシックを演奏する時には頻出するんですよ、と。

それを客演指揮者だけが教育するのは、絶対無理なんだけどね。
「なんか少しへんだけど、楽譜通り弾けてるからまぁオーケー」
と見逃されてきたことが、どんどん大きな障害になってきてるんだね。

でもさ、プライドだけはいっちょ前で。
指揮者に聞けばいいのに。旋律の解釈が分かりません、と。
これが、日本のクラシック音楽の袋小路な現状なんでしょうな。

というわけで、最後の最後で、なんの情感もない場面がずーっと続き興ざめでした。
高校野球で、11対5で、9回裏、ほぼ勝利確定だったのに、
フォアボールを10回出して、負けちゃった、みたいな感じ。
ほんと、とほほだよ。
あと、コントラファゴット、ピッコロ、もう少しちゃんと練習したほうがいい。
持ち替えだからって甘えるな。
あと、弦楽器のパワーのなさはなんなんだろうね。
このウィークポイントがある限り、シュトラウスとか、ワグナーとか、ブルックナーとか、
いつまでたっても無理だと思いますよ、私は。

プロコフィエフのオケはとてもよかった!
ピアノは聞こえなかった。アンコールで弾いた曲で、
このピアニストは、ホールで音をとらえてないなというのがはっきり分かった。
遠くに届かせるピアノではなく、自分の三畳半の中だけで響く音を、
そのままコンサートホールで弾いちゃっいました、という、まぁ、よくありがちなね。
まぁ、まだ若いからね…。名は伏せる、といか知らないのだが。

楽団も、シュトラウスくらいまでは、もう弾いていてもつまらないんだろうな。
そういう気分も伝わってくる。
古典派しかり、そこに、いろいろ盛り込んでゆかなくてはならないのかもしれない。
フルトヴェングラーとか、ワルターとかが頑張って、古典に意味をもりもり盛り込んで、
味があって深みのある演奏していた歴史があるのに、
それを古楽器演奏とかで、一度リセットしてしまったから、
もう大混乱もいいところだろう。
しばらくは、まともな古典派の演奏は聞けないのかもしれない。

プロコフィエフなんかは、音響的にいまだ斬新で、弾いても楽しそうだから、
そういう気分が、演奏にも反映されているのかもしれない。

しかし、この程度の演奏で、僕が芸術劇場を出るときもまだ拍手が続いていてた。
日本のリスナーって、本当に評価が甘いなぁと思う。

まとめると、
「お名前だけおかりします」で読響の指揮の依頼を受けるヘボ指揮者が多い中、
シモーネ・ヤングは、非常に健闘したと思う。思った通りのアーティストだった。
自分の意思をしっかり貫く指揮者だということがよくわかって安心した。
また彼女が来日したら来たいと思う。
出来れば読響以外で振ってほしいのだが…。

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いま火事ですべてが燃えたとしても。

僕はまったく困らないだろう。

火事になった時、何を真っ先に持ち出すか。

それが、あなたの一番必要なもの、と言われるけれど、

僕は、きっと何にも持ち出さない。

自分の命以外思いつかない。

服を羽織って、靴を履いて脱出するだけだ。




本やCDを失っても、

大切な思い出を失っても

ましてや、作ってきた音楽を失っても

何せ自分という人間が生きている。

それだけで、僕は満足だ。




自分の作った音楽は、自分の命より大切?

そんなこと誰が言ったのだ?

自分が生きていることの方が大切だろう。

自分がいれば、また、自分の音楽は作れるのだ。

第一、芸術なんて、つくってしまったら、

そこでもうすべてが終わっているのだ。

出来上がった音楽は、いうなれば、もう死んでいるのだ。

ハードディスク上の死骸が火葬される、

ある意味供養されるかもしれないね。




本当の芸術家は、

その人自身が作品なのだ。

作品は生き方の反映に過ぎない。

だから、作品を生み出さない芸術家が、

本当は一番すごい人たちなのだ思う。

僕は、そこまですごくないので、

今日もせっせとピアノを弾いて、作品を作る。

以上。


ただ、金を失うのは少し困る。

せめて、最小限生活が開始できるだけの蓄えは必要だ。

かっこ悪いが、それは事実です、はい。

note'n notes最後の舞台となる、MusicWaveURAYASU音楽村6が終わりました。ご来場いただいた方々m本当にありがとうございました。

小ホールのトリをつとめました。

・ナカマハーモニー
・頑晴れ
・HappyMaker

の3曲を歌いました。

HappyMakerを歌ってる最中に、天瀬さんが泣いてしまって、ボーカルが落ちてしまったところがありました。

正直、意味が分からないと思いました。

そう思いながら、しばらく自分はハモリのパートを歌っていたんですが、しばらく戻れそうにないと思った僕は、主旋律を天瀬さんと同じ高さで歌いまいた。

その時僕が思ったことは、ボイトレのおかげか、よく声が響くなぁ、ミックスボイスでうまく出てるなぁ、という冷静な気持ちでした。

そのうち、不完全ながらも天瀬さんが復活して、最後まで歌いました。

こうして、われわれの最後のステージは終わりました。

---------------------------

天瀬さんが解散を言い出したのに、その天瀬さんが感極まって泣くというのは、理解しがたいことです。

でもね、でも、数か月前は、自分がそういう人間だったんです。

去年の8月に、僕は、5年間付き合った女性と別れました。

僕から言い出した別れでした。

でも、短い間ですが、一緒に暮らした家を出るとき、僕は泣いてしまったのです。

向こうからすると、「正直、意味が分からない」と思われていたと思います。

自分が決断したことなのに、なんなんだと。

結局、自分の態度で、相手を操作しようとしていたのだと思います。

つまりは、自分が決断したように見えながら、

結局、相手の態度が変わるのを期待していたのです。

それは、結局、他者に自己決定をゆだねていることとなり、

自分の選択のようでいて自分の選択では全くないのです。

そして、それがかなえられなかった時、

自分がかわいそうに思えてくる。

結局、自分が一番かわいそうでしょ、と思う、他者の視線ありきのつまらない自己愛。

---------------------------

僕は、そういう経験を経ているから。

天瀬さんが、僕を操作しようとしているのがよくわかりました。

僕も、それを受け止めて、折れればよかったのですが、

まだ、未熟者で、それを包み込むことが出来ず、

さらに、少し前の自分を見ているようで、ものすごい嫌悪感を覚えました。

あなたは僕を操作しようとしている、

自分は絶対変わることはありません、

そう突っぱねました。

それで、天瀬さんは解散を告げました。

そして、天瀬さんが最後のステージで泣いている。

一緒だ。

まったく一緒だ。

きっと僕たちは似たような人間なんだな。

---------------------------

僕は、残念ではありますが、悲しくはありません。

天瀬さんにも悲しくなってほしくありません。

自分で解散は選んだんだって胸を張って言ってほしいです。

きちんと、自分で、人生を選んでいってほしいです。

僕は、解散を告げられた方だっていう、口惜しさというのはまったくありません。

僕は誇りをもって、色んな事を提案したし、ベストを尽くしたから。

もし、3度目の再結成があるのならば、

きっと、もう解散はないはずです。

そうでないと困る。

そのためにはお互い、自分で人生を能動的に選んでゆくしかありません。

再結成がなくても、

天瀬さんは、弱いものに囲まれて、自分の意思を容易に浸透させるのではなく、

荒波の中で、自分はぶれないという強さを身に着けて、抗ってほしいです。

そして、それはもちろん自分への命題でもあります。

僕は、これからも、自分をあきらめません。

自分の音楽をあきらめません。

応援よろしくお願いします。

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海街diary
綾瀬はるか
2015-12-16






観た自分が悪いんだろうけど、最悪ですな。

というか、リアリティのあるマンガだから実写に向いているように思いきや、

そういうものほど、実写にすると、まったく非現実的になるのはなぜだろう。

演技力の問題なのかなぁ。よくわからないけど。


僕が思う海街Diaryというマンガは、カラフルな日常の中に、

実は、闇が潜んでいる、みんなその闇ににらまれながら生き続けなくてはならない。

そんな世界だ。

まずは、カラフルな活発な画をまずは自分は撮るかな。

あくまで「動」が主体だ。

しかし、この映画は、基本は「静」である。

その時点で、なんか、完全に監督(これえだ ひろかず)のこの漫画の解釈が、自分のそれと違うことが分かる。

これを、僕から見ると、解釈が「浅い」と感じる。

でも、「静」を感じる人もいるのかもしれない。

でも、それは間違ってると自分は言いたい。正しい解釈というものがあると信じたい。

でもまぁこの話はまぁどうでもいい。


菅野よう子の音楽も、肌をなでるような感じで、全然、ダメだ。

この原作を読んでいたら、この音楽を思いつくとはとても思えない。

おそらく、こういうオーダーだったのだろう、哀れ。


長澤まさみ演じる佳乃が、このひどい映画の中で、一番輝いてました。

僕も、佳乃がいちばん登場人物の中では好きだけれど、見事にこの「純情なダメ女」を演じきれていたと思う。千佳もまぁまぁよかった。広瀬すずは、あまりに演技がひどくて、不快なほどで、この女優を一気に嫌いになった。

日本の芸能界って、本当に堕落してますね。

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アルバム、RI:Cycleからのカットです。
あと2曲くらい、ネットにあげようかな〜と思っています。

なんか、今聞くと真っ直ぐだなぁと思います。
気に入ったらアルバム買ってね♡


RI:Cycle(リ・サイクル)
いとうりょうた
伊藤音楽研究所
2016-01-30

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